現在、熱闘が繰り広げられている大相撲。そこで、相撲ウンチク話をご紹介しよう。
“土俵の鬼”といわれた名横綱・初代若乃花は「土俵の下には銭が埋まっている」という名言を残したことで知られているが、土俵の下に実際に埋まっているものがあるのを、ご存じだろうか。「本場所初日の前日に行われる土俵祭では、土俵の中央に15センチ四方の穴を掘り“鎮め物”を埋めることになっています。中身は勝ち栗、洗米、昆布、塩、カヤの実などの縁起もので、これをかわらけに納め、奉書紙で包んで穴に入れ、お神酒を注いでから土俵に埋める。五穀豊穣、国家平安、土俵の無事を祈る儀式で、場所中はずっと埋まったままです」(相撲ジャーナリスト)
その土俵だが、昭和6年に直径15尺(約4.55メートル)に定められている。昭和20年11月、進駐軍の要望で一度だけ16尺(約4.85メートル)に拡大されたことがあるが、力士会からの苦情が多く、一場所で元に戻された。
相撲の起源は古く『古事記』や『日本書紀』まで遡るが、主に神事として行われてきた相撲が興行として成立するようになったのは、江戸時代になってから。各地で神社仏閣を建立する資金を集めるために行われた「勧進相撲」が、その始まりとされる。「番付に書かれた“蒙御免”の文字は相撲の興行を監督する寺社奉行に許可を得たことを示したもの。番付は現在も行司の手書きで書かれており、独特の相撲文字(根岸流)で記すことになっています」(相撲ジャーナリスト)
相撲の本場所が年6場所になったのは昭和33年。その前は年4場所だった。相撲取りを「一年を二十日で暮らすよい男」と詠んだ江戸川柳があるが、これは当時の相撲が春と秋の2場所、10日間の日程で行われれていたためだ。相撲でよく耳にする「○○一門」という言葉があるが、これは本家と分家のようなもので、現在は出羽海一門、二所ノ関一門、伊勢ケ濱一門、高砂一門、時津風一門、貴乃花一門の6つの一門の元に43の相撲部屋が所属している。「昭和40年に部屋別総当り制になるまでは、同じ一門の力士は対戦しないというならわしがありました。多くの力士を抱えた一門は、それだけ有利だったわけです」(前同)
今では“国技”といわれる大相撲だが、その起源は明治42年に建てられた旧両国国技館にある。「国技館というネーミングから“相撲は国技”という認識が定着していったんです」(専門誌記者) 古いようでも意外に新しい。それが大相撲の魅力なのかもしれない。