ジョン万次郎は「漁民から東大教授になった」大天才だった!?の画像
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 幕末から明治にかけて活躍したジョン万次郎は、数奇な運命をたどったことで知られている。

 劇団四季は小学生を対象にしたミュージカル公演であるニッセイ名作劇場で、1974年に『ジョン万次郎海を渡る』を上演。その後、『ジョン万次郎の夢』と改題し、2014年まで何度も上演を重ねてきた。2013年には、『ジョン万次郎 海を渡ったサムライ魂』(マーギー・プロイス/集英社)が青少年読書感想文全国コンクールの課題図書に選ばれるなど、ジョン万次郎は日本人の心に根ざした人物だといえるかもしれない。

 ちなみにジョン万次郎という呼び名は、1937年に出版され、直木賞を受賞した『ジョン萬次郎漂流記 風来漂民奇譚』(井伏鱒二/河出書房)で使われてから広まったもので、本名は中浜万次郎という。

 今回はウソみたいなホントの人生を歩んだジョン万次郎について調査してみた。

■波乱万丈な人生〜漂流、そして米国生活〜

●8歳で一家の大黒柱に

 ジョン万次郎は、1827年(文政10年)土佐国中濱村(現在の高知県土佐清水市中浜)で農業や漁業で生計を立てる貧しい家の次男として誕生した。8歳のときに父親が死に、母親と兄も病弱だったため、幼くして一家の大黒柱として働き始めた。そのため、寺子屋に通って勉強することができず、読み書きは苦手だったという。

●14歳で遭難し、漂流

 1841年(天保12年)14歳のときに仲間4人と漁に出て台風で遭難したが、5日後に伊豆諸島の無人島、鳥島に漂着した。ジョン万次郎たちは救助を待ちながら、143日間、サバイバル生活を送った。救出してくれたのはアメリカの捕鯨船だった。当時の日本は鎖国していたため、日本に送り届けてもらうわけにもいかず、ハワイまで連れて行ってもらうことになった。しかしジョン万次郎だけはホイットフィールド船長に頭の良さを気に入られて、そのまま一緒に航海を続け、アメリカ本土に上陸した。

●16歳でアメリカの学生に

 ホイットフィールド船長の養子になったジョン万次郎は、1843年(天保15年)16歳でオールド・ストーン・スクールという初級学校に入学し、まずは読み書き計算の3つの基礎科目を英語で学び始めた。翌1844年には私立高校のルイス・バートレット・アカデミーに進学し、本格的な船の操縦術をはじめ数学、測量学、航海術、造船技術などを勉強し、首席になるほど優秀な成績を残した。

【ポイント解説】ジョン万次郎のここがすごい!

・とにかく、運がいい!

 海上で遭難したが、約740キロも離れた無人島に漂着する。そこで約5か月間も生き延びる。偶然通りかかったアメリカ船に救助される。ここまででも、ジョン万次郎は何度も九死に一生を得ている。さらにホイットフィールド船長という最良の理解者に出会って愛され、アメリカで学ぶ機会を得ることができた。帰国すると、貧しい家の次男坊だったはずなのに、武士になり幕府要人を経て、東大の教授にまでなってしまったのだ。ジョン万次郎の人生に訪れた幸運は、普通の人の何倍あったのだろうか?

 余談になるが、ホイットフィールド船長の親友、ワレン・デラノの孫が、第32代アメリカ大統領のフランクリン・ルーズベルトである。幼き日のルーズベルト少年がジョン万次郎に大きな憧れを抱いていたことを、本人が万次郎の息子に手紙で伝えている。

 

・人柄が良い!

 ジョン万次郎の運を引き寄せたのは、人柄の良さだったのかもしれない。ホイットフィールド船長が評価したのは、ジョン万次郎の誠実な性格と勤勉さ、聡明さだったという。アメリカ時代の親友ジョブ・C・トリップによると、ジョン万次郎は「内気で、もの静かな少年であり、いつも優しく、礼儀正しかった」そうだ。

■波乱万丈な人生〜帰国、上陸、尋問、帰郷〜

●19歳で捕鯨船デビュー

 1846年(弘化3年)19歳の時から数年間は、捕鯨船員として生活した。

●23歳、ゴールドラッシュで大当たり

 1850年(嘉永3年)23歳で日本に帰ることを決意したジョン万次郎は、資金調達のためにゴールドラッシュに沸くカリフォルニアに向かった。そして金鉱で採掘作業に入ると、数か月で600ドル(現在の価値に換算すると、約200万円)の資金を獲得した。その金でハワイ行きの船に乗り込んだジョン万次郎は、ホノルルでかつて一緒に漂流した土佐の漁師仲間と再会を果たした。

 1851年(嘉永4年)、ジョン万次郎は上海行きの船でハワイを出航し、購入した小舟「アドベンチャー号」で薩摩藩に属していた琉球に上陸した。ジョン万次郎は当地で尋問を受けた後に、薩摩本土に送られて長崎奉行所などで長期間尋問された上、やっと出生地の土佐藩に引き取られた。

 土佐藩での取調べのとき、日本語を忘れかけていたジョン万次郎は蘭学に詳しい画家の河田小龍と同居し、お互いに言葉を教え合った。小龍はジョン万次郎が語ったアメリカの生活事情や考え方を『漂巽紀略』にまとめて藩主の山内容堂に献上しただけでなく、坂本龍馬にジョン万次郎の話を伝え、龍馬が民主主義に基づいた近代的な国造りを目指すきっかけを与えた。

●25歳で帰郷

 1852年(嘉永5年)、25歳になったジョン万次郎は、土佐藩による2か月の取り調べの後、ついに生まれ故郷に帰ることを許された。このとき、琉球の地を踏んでから約2年、漂流してから11年の月日が経っていた。

【ポイント解説】当時、日本は激動の時代だった!

 1840年、ジョン万次郎が13歳のときにアヘン戦争で中国がイギリスに敗北した。1846年、ジョン万次郎が19歳のときにペリーに先駆けて、アメリカ海軍の士官であるジェイムズ・ビッドルが東インド艦隊の司令長官として江戸湾に入港した。これらの出来事により、西洋諸国の軍事力の高さが明らかになり、日本国内に大きな衝撃と動揺をもたらした。これが薩摩藩や長州藩の強大化につながり、一気に倒幕へのムードが高まっていったのだ。

■波乱万丈な人生〜帰国後の大活躍〜

●26歳で武士に

 1853年、ジョン万次郎は土佐藩の武士に取り立てられ、高知城下にある藩校「教授館」の教授として後藤象二郎や岩崎弥太郎を教える立場になった。さらに同年にペリーが黒船で来航したため、英語の通訳として白羽の矢が立ったジョン万次郎は、江戸に呼ばれて旗本の身分を与えられたばかりか、その知識を必要とされて軍艦教授所の教授に抜擢された。

●27歳で結婚

 1854年(安政元年)幕府の剣道指南役の娘と結婚した。幕府での地位も安泰になったかと思いきや、ジョン万次郎がアメリカ人と親しくすることを快く思わない者やオランダ語の通訳に、スパイの嫌疑をかけられ、ペリーの通訳を解任されてしまった。

●33歳で再び渡米

 1860年(万延元年)、「日米修好通商条約」の批准書を交換するために幕府が派遣する遣米使節の1人に選ばれて、再びアメリカへ行くことになった。勝海舟が艦長を務める咸臨丸でサンフランシスコに向かった。船酔いで使い物にならなかった日本人の同乗者をよそに、ジョン万次郎とアメリカ人乗組員は協力して航海を成功させた。現地に着くと通訳として活躍し、一緒に行った福沢諭吉とウェブスターの英語辞書を購入したというエピソードが残っている。

●35歳で船長に

 1862年(文久2年)幕府が管轄する軍艦操練所の教授に就任して「一番丸」という帆船の船長になった。小笠原諸島の近海まで航海して捕鯨を行ったりした。

●39歳で土佐に戻る

 1866年(慶応2年)土佐藩が「開成館」を設立することになり、ジョン万次郎が教授に選ばれた。また藩に命じられて後藤象二郎と一緒に長崎と上海に渡って「夕顔丸」という土佐藩の帆船を購入した。

●42歳で東大の英語教授に

 1869年(明治2年)倒幕を果たした明治新政府から「開成学校(現・東京大学)」の英語教授に任じられた。

●43歳でヨーロッパへ

 1870年(明治3年)普仏戦争の視察団としてヨーロッパへ派遣された。しかし病気になったため、戦場へは行かずロンドンで待機して過ごした。帰り道にニューヨークに寄港した際、第2の父と言っても過言ではない大恩人、ホイットフィールド船長と約20年ぶりに再会を果たしている。

 この航海を最後に第一線を退いたジョン万次郎は、1898年(明治31年)72歳で逝去するまで故郷の土佐に隠棲して静かな余生を送った。

【ポイント解説】幕末の歴史を変えたスターたちと交流

 ジョン万次郎は同じ土佐藩出身の坂本龍馬ほか、幕末の志士に強い影響を与えた。明治政府の要職に就いた後藤象二郎と、三菱財閥を創業した岩崎弥太郎は、高知城下にある藩校「教授館」でジョン万次郎から直接講義を受けている。また福沢諭吉はジョン万次郎と一緒に渡米し、『学問のすゝめ』執筆のきっかけを得たとされている。

■ジョン万次郎の英語勉強法は?

 渡米当時、ジョン万次郎は貧しさのために日本語の読み書きさえおぼつかない状態だったが、親友のトリップいわく「A、B、Cから高等数学まで、勉強と名がつくものには何にでも深い興味を示し」「クラスでいちばん頭が良く、教わることは何でもすべて吸収した」らしい。

●ジョン万次郎の書いた英会話の本

『英米対話捷径』 (1859年)

 日本最初の本格的英会話教本。213の日常英会話に、対訳がつけられている。ジョン万次郎の英語の勉強法は、自分の耳で聞こえた英語をそのまま発音するというものであった。

例)
・letter ラタァ
・English エンゲレス
・twenty ツーエンテー
・first ホイスト
・undifferent インデフハデンタ

 この『英米対話捷径』 は現在、『ジョン万次郎の英会話』(乾隆/ジェイ・リサーチ出版)として復刻され、現代語訳がつけられている。また近年、この勉強法が再評価され、ジョン万次郎の発音法を参考にした英語を教える英会話教室も存在する。

■ジョン万次郎の経験は「日本人初」の宝庫だった!

 ジョン万次郎の人生は、まさに「日本人初」だらけ。具体例を挙げてみると、その偉業がよく分かる。

・初めて『ABCの歌』を日本に紹介した

・初めてアメリカに住んだ日本人

・初めてネクタイをした日本人

・初めて鉄道、蒸気船に乗った日本人

・初めてアメリカのゴールドラッシュに関わった日本人

■ジョン万次郎を取り上げた書籍

『中浜万次郎』(石井研堂/博文館)「少年読本シリーズ」第23巻 1900年

『中濱萬次郎傳』(中濱東一郎編著/冨山房)1936年

『ジョン萬次郎漂流記 風来漂民奇譚』(井伏鱒二/河出書房)1937年

『さざなみ軍記』(井伏鱒二/河出書房) 1938年

『ジョン・万次郎の生涯』(片方善治/刀江書院)1959年

『新・ジョン万次郎伝』(エミリィ・V.ワリナー/出版協同社)1966年

『中浜万次郎の生涯』(中浜明/冨山房)1970年

『私のジョン万次郎―子孫が明かす漂流150年目の真実』(中浜博/小学館)1991年

『誇るべき物語—小説・ジョン万次郎』(有明夏夫/小学館)1993年

『ジョン・マンと呼ばれた男—漂流民中浜万次郎の生涯』(宮永孝/集英社)1994年

『椿と花水木—万次郎の生涯』(津本陽/新潮社)1996年

『中浜万次郎—「アメリカ」を初めて伝えた日本人』(中浜博/冨山房インターナショナル)2005年

『ファースト・ジャパニーズ ジョン万次郎』(中濱武彦/講談社)2007年

『ジョン万次郎 海を渡ったサムライ魂』(マーギー・プロイス/集英社)2012年

『ジョン万次郎に学ぶ 日本人の強さ』(中濱武彦/KKロングセラーズ)2012年

■高知県には銅像や資料館も

 かつての土佐国(現在の高知県)だけでなく、各地にジョン万次郎に関する多くの史跡が残っている。

・ジョン万次郎銅像

(〒787−0315 高知県土佐清水市足摺岬)

 土佐清水市の足摺岬には立派な中浜万次郎像がある。この銅像のジョン万次郎は右手にコンパス、左手に三角定規を持っていることから、フリーメーソン説もささやかれている。

・ジョン万次郎生家

(〒787−0318 高知県土佐清水市中浜)

 ジョン万次郎が14歳まで暮らした地に生家が再現され、中浜万次郎生誕地碑が立てられている。

・中浜万次郎宅跡(ジョン万次郎旧居跡)

(〒136−0073 東京都江東区北砂1−19−11)

 1869年から11年間、開成学校(現・東京大学)の英語教授などを務めながら土佐藩下屋敷に住んでいた。現在は小学校になっている。

 ジョン万次郎に関連する記念館は日米両国にある。日本では土佐清水市に「ジョン万次郎資料館」が、アメリカのマサチューセッツ州に「ホイットフィールド=万次郎友好記念館」があり、多くの縁の品が展示されている。ジョン万次郎の子孫としては、長男で医師の中浜東一郎や孫で歌人の中浜絲子、ひ孫で医学博士の中浜博などが有名である。

ジョン万次郎資料館

(〒787−0337 高知県土佐清水市養老)

ホイットフィールド=万次郎友好記念館

(アメリカ合衆国マサチューセッツ州フェアヘブン)

■ジョン万次郎を演じた俳優たち

 ジョン万次郎は幕末の志士たちに影響を与えた重要人物として多くの映像作品に登場し、名優たちに演じられてきた。

*井川比佐志:大河ドラマ『竜馬がゆく』(1968年・NHK)

*中西良太:大河ドラマ『翔ぶが如く』(1990年・NHK)

*岸部一徳:映画『EAST MEETS WEST』(1995年公開)

*大滝秀治:ドラマ『竜馬がゆく』(1997年・TBS系)

*中村梅雀:ドラマ『竜馬がゆく』(2004年・テレビ東京系)

*トータス松本:大河ドラマ『龍馬伝』(2010年・NHK)

■ゲーム『モンスターストライク』でもキャラクターに

 ジョン万次郎はスマホ向けの人気アクションRPGゲーム『モンスターストライク』にも「ジョン万次郎」というキャラクターで登場する。

■まとめ

 突如として行方不明になった貧しい少年が、10年後に英語ペラペラの国際人になって帰ってきた。そんな漫画みたいな数奇な生涯を送ったジョン万次郎は、漂流から教授・通訳・幕府要人になった大天才だったのは疑いようのない事実であった。またジョン万次郎は、幕末の世に異例ずくめの出世を果たして歴史を動かした大人物であると同時に、本物の海外経験を積んできた真の国際人であった。

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