なぜ「大政奉還」したのか!? 徳川慶喜の謎を追うの画像
なぜ「大政奉還」したのか!? 徳川慶喜の謎を追うの画像

 2017年は「大政奉還」から150年目を迎えるアニバーサリーイヤーに当たる。その歴史的大事件の舞台となった京都市では大々的なプロジェクトを立ち上げ、幕末や明治維新にゆかりのある参画都市と一緒に様々な記念事業を行っている。今回は「大政奉還」に至るまでの経緯をたどりながら、徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)が「大政奉還」を決めた理由に迫ってみたい。

■簡単解説!「大政奉還」ってどんな事件?

 分かりやすく簡単に説明すると「大政奉還」とは、幕末期に江戸幕府の第15代将軍・徳川慶喜が政権を天皇に返上した事件である。“大政”は天下の政治を、“奉還”は天皇にお返しすることを意味する。この「大政奉還」によって265年間続いた江戸幕府は終了した。

 日本史の中でも重要な事件であるため、受験勉強のために「大政奉還」が行われた1867年には多くの語呂合わせが作られた。

・人は、むな(1867)しき大政奉還
・大勢忍ぶ いや、むなし(1867)
・江戸幕府、一夜むな(1867)しく崩れけり

■「大政奉還」に至る背景

●黒船来航、何もできなかった政府に不満が爆発

 1853年にペリーが黒船で来航し、江戸幕府はアメリカとの間に1854年に開国要求に応じる「日米和親条約」、1858年に貿易に応じる「日米修好通商条約」を結んだ。各条約を結んだ後は、オランダ・ロシア・イギリス・フランスといった列強国とも同様の条約を交わすこととなった。

 当時、国内には開国派と鎖国派が存在したが、相手国に押し切られるようなかたちで条約調印に至った上に、その内容も相手国に優位を認める不平等条約だったため、各方面で幕府への不満が爆発した。

●朝廷と幕府で意見が対立

 特に1858年の「日米修好通商条約」は勅許(天皇の許可)を得ないで調印してしまったため、朝廷と幕府は激しく対立した。両者の関係を修復し、幕府の権威を復活させるために採られた対応策が「公武合体」であった。「公武合体」とは“公”である朝廷と、“武”である幕府が協力して政治を行うべきだとするもので、実際に1862年には第14代将軍・徳川家茂(とくがわ いえもち)と孝明天皇(こうめいてんのう)の妹である和宮(かずのみや)の婚儀が成立している。

●尊王攘夷運動

「尊王攘夷」とは天皇を尊び政治の中心とする”尊王”と、外国を敵と見なして追い払うべしとする”攘夷”の2つの思想が結びついた考え方である。両者は別々の思想として発展したが、幕末になると幕府への不満と外国からの圧力による危機感から合体し、最終的には幕府を倒す討幕運動の中心的役割を担うようになった。

●「安政の大獄」と「桜田門外の変」

 幕府と尊王攘夷派の対立を激化させたのが、1858年から翌年にかけて起こった「安政の大獄」である。江戸幕府・大老の井伊直弼(いい なおすけ)が断行した徹底的な弾圧で100名以上が処罰され、後の将軍・徳川慶喜も謹慎処分になった。

 この弾圧政策は大きな反発を招き、1860年に「桜田門外の変」で井伊直弼の暗殺を引き起こしただけでなく、尊王攘夷派のさらなる反幕意識を高揚させることになった。

■薩摩藩、長州藩、土佐藩などが台頭

●長州征伐失敗、薩長同盟

 このような状況の中、幕府の弱体化にともなって薩摩藩・長州藩・土佐藩などの有力な藩が台頭してきた。長州藩は1864年に「禁門の変」で、朝廷サイドと武力衝突を起こし、朝敵とされ「第1次長州征討」で窮地に陥った。

 公武合体派の薩摩藩と急進的な攘夷派の長州藩は、それまで非常に仲が悪く、ことあるごとに反目し合っていた。しかし薩摩藩内で尊王攘夷論が高まり、しだいに接近していった。

 そして土佐藩の脱藩浪士である坂本龍馬(さかもと りょうま)と中岡慎太郎(なかおか しんたろう)の仲介で、薩摩藩の西郷隆盛(さいごう たかもり)、大久保利通(おおくぼ としみち)と長州藩の木戸孝允(きど たかよし)が「薩長同盟」を実現させたのである。この密約は1866年3月に締結され、「第2次長州征討」は薩摩藩が出兵を拒否したために失敗したとされている。

●土佐藩が「建白書」を提出

「薩長同盟」が倒幕を意識した尊王攘夷路線で締結されたことに対し、公武合体派の土佐藩は、幕府を含む雄藩による連合新政府の樹立を考えていた。そんな状況の中、坂本龍馬の「船中八策」の発想に影響を受けた後藤象二郎(ごとう しょうじろう)らが、大政奉還の「建白書」を押し進めた。前藩主・山内容堂(やまうち ようどう)は「建白書」を藩論にすることは同意したが、上京出兵と将軍職廃止には反対した。しかし土佐藩は藩主・山内豊範(やまうち とよのり)を通じて、1867年10月3日に「建白書」を将軍・慶喜に提出。8か条から成る「建白書」の内容は下記のようなものであった。

1、天下の大政を議定する全権は朝廷にあり、皇国の制度法則の一切万機は必ず京都の議政所から出るべきである

2、議政所を上下に分かち、議員は選挙によって選ぶ

3、長幼の学校を設けて教育を施す

4、外国との条約は兵庫で新たな条約を結び、誠実に履行する

5、海軍・陸軍は重要であり、京都・大坂に軍局を置いて親兵となす

6、古来の旧弊を改新し、大根基を建てる(国家システムの根本改革)

7、朝廷の制度法則を現代に合うように改革する

8、これらの議事に係る者は私心を捨て、公平に基づき、術策を設けず、正直を旨として、実りある議論をすべきである

 ちなみに2011年、この「建白書」の写しが千葉県松戸市で見つかった。これまでも内容は知られていたが、原本はもちろん写しが確認されたのは、史上初めてだった。

●徳川慶喜って、どんな人だった?

「建白書」を受け取ったのは、江戸幕府の第15代将軍・徳川慶喜である。“最後の将軍”として知られる慶喜は、第9代水戸藩主・徳川斉昭(とくがわ なりあき)の7男として誕生し、幼少の頃から文武両道に長けた非常に英明な人物として知られていた。1847年に一橋家を相続すると、1853年に勃発した「将軍継嗣問題」では「一橋派」に推され、将軍の後継者候補に擁立されたが、このときは対立候補で「南紀派」の徳川家茂が将軍に就任した。

 しかし1860年の「桜田門外の変」をきっかけに、幕府内では一橋派が復権。慶喜は1862年に将軍後見職、1864年に禁裏御守衛総督に就き、同年7月に勃発した「禁門の変」では幕府側の総指揮を執って長州藩を撃退した。そして「第2次長州征伐」の最中、1866年7月20日に第14代将軍・家茂が死去したため、8月20日に徳川宗家を相続し、12月5日に将軍職に就任した。

■徳川慶喜が「大政奉還」した思惑とは!?

●ついに大政奉還へ

 1867年10月29日に土佐藩から、11月1日には安芸藩から提出された「建白書」で大政奉還を勧告された慶喜は、幕府内外の要人に意見を聞いた後、11月7日に幕閣に政権返上の決意を伝えると、8日には二条城に40藩の重臣を集めて通達。9日には明治天皇に文書で申し入れ、翌10日には勅許を受けて、あっという間の「大政奉還」となった。土佐藩による「建白書」の提出から「大政奉還」の成立までの期間は、わずか12日間であった。

 しかし、慶喜をはじめとする幕府にとって「大政奉還」は、あくまでも幕府の内紛を収束させるための解決策の一つに過ぎなかったと言われている。つまり朝廷には政権を運営する能力や体制がないため、形式的に大政奉還したあとも、政治の実権は徳川氏が掌握し、天皇の下に創出される新政府においても慶喜を中心とした国家が維持できると考えていたのである。

●ええじゃないか

 政権が揺れに揺れていたこの時期、一般大衆も大騒ぎしていた。1967年、近畿、四国、東海地方などで老若男女が入り乱れて「ええじゃないか」と叫びながら踊りまくる狂乱騒動が発生していたのである。諸説あるが、伊勢神宮などの神符が降ってきたということをきっかけに、世直し的な世間の風潮を反映して起こったものだといわれている。

■クーデターが発生し、幕府が崩壊

「大政奉還」を受けた朝廷は、有力藩の大名による会議で新体制を決定することにした。しかし召集を受けた大名たちの多くは、態度を決めきれずに形勢をうかがう構えを見せ、結局のところ上洛したのは薩摩・安芸・尾張・越前・土佐の5藩のみであった。

●王政復古の大号令

 1868年1月3日、倒幕派の公家・岩倉具視(いわくら ともみ)と薩摩・安芸・尾張・越前・土佐の5藩が、いわゆる「王政復古の大号令」と呼ばれる政変クーデターを起こし、明治天皇の名の下に新政府を樹立した。明治天皇は当時15歳と若く、実質的には岩倉具視ら一部の公家と、薩長が主導する新政府成立を宣言する内容だった。この日をもって江戸幕府の廃絶および慶喜の将軍職辞職が決定した。

●戊辰戦争

 そして、徳川氏への厳しい処置に反発した旧幕府軍と新政府軍の内乱が「戊辰戦争」である。1868年1月に鳥羽・伏見の戦いに敗戦した慶喜は、江戸に戻って新政府への恭順を示した。そして勝海舟(かつ かいしゅう)らと西郷隆盛による交渉の末、慶喜の助命と引き換えに1868年5月3日の江戸城の無血開城に至った。しかし、この結末に納得できなかった旧幕府軍は、その後も各地で抵抗戦を繰り広げた。新政府軍は11月に会津戦争で会津藩を降伏させると、1869年6月五稜郭の戦いにも勝利し、「戊辰戦争」を終結させた。

●そして明治維新へ

「戊辰戦争」で封建主義的な徳川幕府体制は完全に崩壊した。そして日本は明治新政府による資本主義的な中央集権国家への道を歩き始めることになったのだ。新政府は廃藩置県で藩を解体し、欧米的な徴兵制度や税制、教育制度などを導入して近代的な国家作りを進めていった。

■大政奉還は、どんな意味があったのか?

●江戸幕府、武家政治の終了

 慶喜の思惑は別にしても、「大政奉還」は結果的に265年間の徳川幕府にピリオドを打ったばかりか、平安時代後期以来、約700年間続いた武家政権を終わらせた象徴的な出来事となったのは間違いない。

●議会制民主主義への第一歩

 上記したように「大政奉還」を勧告するために提出された「建白書」には、驚くほど近代的な内容が盛り込まれていた。朝廷や国家のシステム改革や国会の設置について言及されているだけでなく、議会制民主主義への第一歩とでも呼べるような上下二院制議会の構想まで提案されている。実際に1881年に「国会開設の詔」が出され、1889年に大日本帝国憲法が公布されると、1890年に帝国議会の発足にいたり、アジアでは初となる本格的な議会制国家が完成した。

■まとめ

 江戸城を開城した慶喜は水戸を経て静岡で謹慎生活を送った。1869年に謹慎が解かれた後も、再び政治的な野心を持つことはなかったとされ、趣味に没頭して旧幕臣らにもほとんど会わなかったという。

 そもそも将軍になることに乗り気ではなく、何度も就任を拒んでいたという徳川慶喜。江戸幕府最後の将軍、日本史上最後の征夷大将軍という役目を演じなければいけなかった男は、どんな気持ちを抱えながら余生を送ったのだろうか?

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