笹川ひろし(タツノコプロ顧問)「アニメへの熱だけは変わってほしくない」アニメに懸けた人間力 の画像
笹川ひろし(タツノコプロ顧問)「アニメへの熱だけは変わってほしくない」アニメに懸けた人間力 の画像

 タツノコプロは、『マッハGoGoGo』や、『科学忍者隊ガッチャマン』のように、リアルな絵が、一番の特徴なんです。でも、実は私はタツノコに入る前は手塚治虫先生の門下生から漫画家になって、手塚治虫の第一アシスタントなんて言われていたんです。だから、手塚先生の言うことは神様が言うことですから、間違いないと思っているわけです。

 私がいた頃は、鉄腕アトムをテレビアニメでやっておられて、アニメは省略とデフォルメーションだと言われていましてね。たとえば、アトムが着地するシーンは、1話で使ったものを、背景を変えて2話、3話で使う。バンクシステムって呼ばれていたんですが、そうしなければ、やっていけませんでしたから。

 それが、タツノコプロの初代社長・吉田竜夫さんは真逆。アニメは手塚先生や、藤子不二雄先生のように丸い絵が常識で、吉田さんのようなリアルな絵はありえなかった。

 だから、入った当初は、吉田さんともう泥沼の言い合いでしたね(笑)。頑固な方で、“そんなことはない、絶対に吉田流を出すんだ”と。そのためにもプロダクションを作ったのだから、吉田さんの言う通りにしましたけどね。

 でも、アニメーターは大変でしたよ。普通のアニメの2、3倍の作業量はあったと思います。『マッハGoGoGo』では、車体の裏なんて大して写らない部分まで丁寧に書きこんでいましたから。みんな嫌がって、中々、人も集まらない。

 でも、朝会社に来ると、吉田さんが一人で、みんなが上げた絵をコツコツと直しているんです。1話分4000枚くらいありましたから、大変な量ですよ。

 テレビなので、これが毎週。国分寺に建てたプレハブ住宅でやっていたんですが、不夜城のようでした。

 みんな、お正月も休めないような生活でしたけど、それでも続けられたのは、ハングリー精神だったんだと思います。アニメーターの中には大きなアニメプロから、来た人もいたんですが、その彼が、昔の同僚かなんかと電話で“俺、いまタツノコプロにいるんだよ”っていうと、電話越しに“なんでそんなところにいるんだよ(笑)”って聞こえてくる。

 大体、そういう人はすぐに辞めちゃうんですけどね。柱になったのは、一般試験で“どうしても絵が描きたいんです”と入ってきた素人さんたちでしたよ。床屋さんだった人が店を辞めてきたり、自衛隊の人だったり。本当に好きな人だけが集まった。

 といっても、素人集団ですから、めちゃくちゃでしたよ。文化祭で学生がアニメを作ってるみたいな(笑)。映写機もなくて、“どこ行けば買えるんだ?”って、そんな状況。隣が雑木林だったから、人の土地なのに、勝手に木を切ってテーブル作ったりしているやつもいた(笑)。その土地は、最終的にはタツノコプロで買いましたけどね。

 今でこそ、アニメはリアルなものから、デフォルメしたものまでなんでもある。これは、吉田竜夫さんの功績が大きいんじゃないかなと思いますね。

 タツノコプロは去年で55周年を迎えたのですが、55年経って、ようやく今回公開される『infini-TForce』のようなフル3DCGで一本の作品ができたのは感慨深いですね。これが、今の日本アニメ界ができる限界なんじゃないかと思わせてくれるほどリアルな映像でした。吉田さんが見たら、“ほら、見ろ”って言っているかもしれません。それか、“やっぱり、絵のほうがいい”と否定するかもしれない(笑)。

 それだけ、昔とは大きく、アニメ業界も変わってきている。技術もかけられるお金も、いろんな条件を練り合わせなければいけない。

 でも、これやってみたらどうなるんだろうっていう熱だけは変わってほしくないですね。やる前に、計算だけして、やっぱりやめようというのはね。私はもう年がいっていますから、傍からアニメがどう進化していくのか、見るのが楽しみですよ。

撮影/弦巻勝

笹川ひろし(ささがわ・ひろし)
1936年7月9日、福島県生まれ。福島で漆塗り職人に就いたが、漫画家の夢が捨てきれず、手塚治虫に漫画を送り続ける。それが、手塚の目に留まり、上京し手塚の第一専属アシスタントに。その後、漫画家として独立し、吉田竜夫の誘いでタツノコプロに創立時から参加。演出家として数々の名作を世に送り出す。監督としての代表作は『タイムボカン』シリーズ、『新造人間キャシャーン』、『ハクション大魔王』など。

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