追悼ザ・デストロイヤー「馬場と猪木と白覆面」秘話の画像
追悼ザ・デストロイヤー「馬場と猪木と白覆面」秘話の画像

 “白覆面の魔王”として昭和プロレスを熱狂させた、『ザ・デストロイヤー』ことリチャード・ベイヤーさんが3月7日(日本時間8日)に88歳で亡くなった。

 1963年に初来日。同年5月24日に東京体育館で行われた力道山との試合は、64%という驚異的なテレビ視聴率をマーク。一躍、悪役レスラーとして日本で一番有名な外国人になった。

「“足4の字固め”を武器にジャイアント馬場やジャンボ鶴田、アントニオ猪木らと死闘を繰り広げた一方、70年代にはバラエティ番組『金曜10時!うわさのチャンネル‼』(日本テレビ系)に出演。そのユニークなキャラで広くお茶の間からも愛されました」(スポーツ紙記者)

 トレードマークは目と鼻と口だけくり抜いた白マスク。現役時代は一度も、そのマスクを脱ぐことはなかったが、その素顔について『週刊ファイト』元編集長の井上譲二氏はこう明かす。

「マスコミの前でもけっしてマスクを脱ぎませんでしたが、親しくなった一部の人には素顔を見せてくれた。晩年は後ろ髪を少し伸ばした、チャーミングなお爺ちゃんでしたね。彼が多くの人から愛された理由は、なんといってもその人柄。ファンだけでなくマスコミにも、とにかく親切に接する人でした。彼は、我々日本人が聞き取りやすいように、いつもゆっくりと分かりやすい英語だけを使って話してくれた。そのせいか、アメリカに帰国したときに“変なしゃべり方をするようになった”と、友人たちに笑われてしまったそうですよ」

 大の親日家としても知られるデストロイヤーは、93年の現役引退後もたびたび来日。日本滞在時にはいつも東京・麻布を拠点にし、毎年行われる「麻布十番納涼祭り」への参加を楽しみにしていたという。

「アメリカの自宅には日本間も作っていたし、この人ほど日本を愛した外国人レスラーはいなかった。2020年の東京オリンピック開催も、誰よりも楽しみにしていましたね」(井上氏)

 その日本愛の根底には、ジャイアント馬場やアントニオ猪木らへの感謝があると、井上氏は話す。

「デストロイヤーさんは60年代初期に、この2人とカリフォルニアのマットを回ったんですが、そのとき、彼らに親切にしてもらったことを、ずっと忘れなかったようなんです。猪木とは、16年9月に共通の知人を介してホテルオークラで再会しています。当時彼は86歳で、キャスター付きの歩行器を使っていたんですが、猪木と握手をするときだけは力強く立ち上がったそうです。“あんなに楽しそうな表情をするデストロイヤーさんを久しぶりに見ました”と、その知人も感動していました」

 リングの上で交わした絆は、最後まで切れることがなかったのだろう。マットを彩ったスターの逝去。心より、ご冥福をお祈りいたします。

 3月18日に発売される『週刊大衆』では、この他に巨人&阪神のペナントレース予想や、春のセンバツ野球の注目選手について特集した企画など、スポーツ情報を多数掲載している。

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