関根潤三「長嶋茂雄&一茂」愛と修羅の横顔の画像
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 4月9日、93歳で亡くなった野球解説者の関根潤三さん。関根さんは、法大野球部でエースとして活躍したのち、1950年、近鉄パールスに入団している。「ピッチャーとして入りましたが、のちに野手に転向。投手、野手の両方でオールスター戦に出場するなど、二刀流の元祖でした」(スポーツ紙ベテラン記者)

 65年に巨人に移籍、その年のオフに現役を引退。70年、広島の打撃コーチ就任を機に再びユニフォームを着ると、以後、第一次長嶋政権でヘッドコーチ、大洋、ヤクルトの監督と、指導者としての才能を開花させた。関根政権のヤクルトで、スカウト担当部長を務めた片岡宏雄氏は、こう言う。「関根さんほど、仕事がやりやすい監督はいませんでした。相手を尊重して、偉ぶることが一切ない。最初に“私は、アマチュアのことは分かりません。現場に足を運んでいる、あなたたちに全部お任せします”と言われ、期待に応えねばと、逆に身が引き締まりました」

 選手の育成術にもまた、その人柄が出ていた。「関根さんは欠点に目をつぶって、長所を伸ばす監督でした。たとえば、若手時代の池山隆寛は、ホームランか三振かという粗さが目立ったが、小言を言わず、“どんどん振っていけ”と背中を押した。我慢して使い続けたことで、池山は主軸に成長しました」(前同)

 だが、後悔が残る“未完の大器”が一人だけいたという。87年のヤクルトのドラフト1位、長嶋一茂だ。そもそも、関根さんは一茂の父、長嶋茂雄と長きにわたって近い関係にあった。「現役晩年、不振に喘いだ長嶋が田園調布の自宅に関根さんを招き、打撃指導を受けたことが。その際、関根さんが勝負師の修羅の顔で厳しく指導したことで、逆に長嶋は信頼したそうです」(前出の記者)

 関根さんもまた、人間・長嶋茂雄を深く愛した。「大洋の監督就任の際、“長嶋さんが来るなら、その座をいつでも譲る”と口にしたほどですからね。息子である一茂を1位指名するときも、言葉にせずとも関根さんの背中には“取ってくれ”と書いてあった。関根さんにとって、一茂は親戚の子のようなもの。愛情を持って育てる気持ちだったはずです」(前出の片岡氏)

 生前、「長嶋に惚れている」と口にしたこともあった関根さん。“ミスター愛”を貫いた白球人生だった。

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