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高校野球100周年記念「甲子園名将列伝」木内幸男監督(取手第二高校、常総学院高校)

[増刊大衆2015年10月25日号]

高校野球100周年記念「甲子園名将列伝」木内幸男監督(取手第二高校、常総学院高校)

 1915年(大正4年)から始まった全国高校野球選手権は、2015年で100年。それを記念して、野球史に名を刻んだ名監督たちによる激闘の記録と涙のエピソードを取り上げていきたい。最終回は茨城県立取手第二高校と、同じく茨城の常総学院高校を甲子園優勝に導いた木内幸男(きうち ゆきお)監督。異質の采配と戦術で数々の強豪校をねじ伏せた「木内マジック」の秘密に迫る!

 100年の歴史を刻んだ高校野球だが、木内幸男ほど型破りな監督は見当たらない。「木内マジック」と呼ばれた戦術戦略。ベンチ入りした選手を使い切る用兵術。そして何より驚くのは、グラウンドを離れれば、男女交際も容認する放任教育だったことである。

 監督人生も、貧乏物語を地で行った。土浦一高の監督時代は事実上の無給。取手二高に移っても、月給は4000円(後に6万2000円)だった。常総学院の監督に転じ、月給25万円になるが、それまでは、妻・千代子が質屋通いを続けていた。稼ぎの悪い亭主だったが、監督としては甲子園で3回も優勝を果たした。大会ナンバーワンと言われた桑田真澄(PL学園)やダルビッシュ有(東北高校)を攻略した「木内マジック」は、100年後まで語り継がれるに違いない。

 木内幸男は、1931年7月12日、茨城県土浦市で生まれた。9人兄弟の長男で、祖父は下駄の製造販売で財を成し、大きな土蔵を2つも持っていた。その土蔵の中に、新品でピカピカのバットがあった。木内の父が「ビクトリー」という野球チームのオーナーになっていたからに他ならない。

「ビクトリー」で野球の面白さに目覚め、旧制土浦中学(現・土浦一高)に入学した木内だったが、ショートを守ったデビュー戦は散々なものだった。<ショートゴロ八つ。ほんで、エラー七つだ。捕れたのが一つあったんだけど、それが暴投だった>(木内幸男著『オレだ!! 木内だ!!』)

 高校生活最後の夏は、水戸工と対戦。3対2と1点リードし、迎えた8回裏二死一、二塁。相手打者が放ったライナーを、センターの木内がダイビングキャッチを試みたが、レフトと交錯。打球は転々とし、2人のランナーが生還、逆転負けを喫した。そのとき、打球を捕れなかった悔しさが、コーチとして学校にとどまるきっかけになった。そして、早々と2年後に監督のお鉢が回ってきた。

 家が裕福だったからこそできた無給の仕事だったが、祖父が長火鉢の前でバナナを咥えたまま急死。家業が傾き、一転、貧乏生活を強いられる。そんな木内を支えたのが、21歳のときに結婚した1歳上の千代子だった。土浦一の野球部長の後輩が取手二の野球部長だった関係で、木内は月給4000円で誘われ、取手二の監督になる。電気ゴタツが3000円だった1957年のことである。

<取手にやって来たあとだ。家内が内職に新聞配達をしてたってことがあって、それをまた、オレが知らなかったんだよ……。『なんでそんなことすんだ。みっともねえ、この野郎!』もう私はカンカンだ。そしたら家内が黙ってタンスを指さすわけ。開けてみると、着物が1枚か2枚しか入ってねえ……>(前掲書) 残りの着物は、すべて質屋へ消えたのであった。

 何度も甲子園に出場するようになり、月給は手取り6万2000円に跳ね上がったが、それでも生活は苦しく、住まいは市営住宅だった。その家の床が抜けたのは、甲子園で晴れて全国優勝を成し遂げたとき。記者とカメラマンが大挙して押しかけ、床が抜けてしまったのである。

 1984年8月21日、夏の甲子園大会決勝は、木内率いる取手二と、桑田真澄(2年=後に巨人)と清原和博(同=後に西武ほか)を擁するPL学園の戦いになった。1回表、取手打線が桑田に襲いかかる。ドラム叩きが趣味の一番・吉田剛(遊撃手=後に近鉄、阪神)は三塁ゴロ、2番・佐々木力(二塁手)はライトフライに倒れたが、ロックバンドのリーダーを務める3番・下田和彦(左翼手)がセンターオーバーの二塁打をかっ飛ばし、連続ヒットとエラーで2点を先行した。

 1回裏、取手二のエース・石田文樹(後に大洋)は二死二塁から4番・清原に四球、5番・桑田にショート内野安打を許したが、6番・北口正光(三塁手)をレフトフライに打ち取り、無失点。石田は父母会からプレゼントされた強精剤を飲んでマウンドに登っていた。6回裏、PLに1点を返されたが、7回表、吉田が桑田から2ランホーマーを放ち、4対1。ベンチはお祭り騒ぎになった。吉田の父は、常磐線の取手-勝田駅間の切符を手に、アルプススタンドで「取手勝った」と大喜びしていた。

 取手二は監督も選手も父母も型破りだった。木内が男女交際を容認したせいで、選手は好きな女の子の名前をバットに記し、ヒットを連発したのである。しかし、8回裏、PLは4番・清原のレフト前ヒットを足がかりに2点をもぎ取り、4対3と1点差に迫ってきた。

「相手は逆転のPL。延長戦になるかもしれん」木内がぼやくと、9回裏、石田が1番・清水哲に本塁打を浴び、4対4の同点。すると、木内は柏葉勝己をリリーフに送り、ワンアウトを取ると、石田を再登板させ、清原を三振、桑田を三塁ゴロ。このワンポイントリリーフが、後に「木内マジック」と呼ばれる奇策の始まりだった。

 “KKコンビ”を抑え、流れが取手二にきた。10回表、一死一、二塁から5番・中島彰一(捕手)が打席に入る。中島はツッパリ軍団の中にあって、異色の優等生タイプだった。頭のいい中島は、2ボール1ストライクからの4球目、桑田がセットポジションに入る直前、握りがストレートなのを見抜いた。ストレートは真ん中高めのボール球だったが、大根切りで上から強く叩くと、打球はぐんぐん伸び、左中間スタンドに飛び込んだ。

 3ランを放った中島がホームベースを踏むと、優勝が決まったとばかり、選手たちはホームベース周辺に歓喜の輪をつくった。「早く、ベンチに戻れ!」木内が叫ばなければ、選手たちの喜びの輪は解けなかったであろう。木内は出っ歯を剥き出しにしていたが、日本高野連幹部は苦虫を噛みつぶしていた。

 木内の監督人生は遅咲きであった。甲子園初出場は、1977年。高校野球の監督になり、24年目。決勝でPLを倒しての日本一は、31年目の夏であった。

 あまり知られていないが、全国優勝したとき、すでに木内は常総学院に移ることを決めていた。常総の櫻井富夫理事長から三顧の礼で迎えられたのである。ついでながら、櫻井理事長は、土浦一の野球部に2カ月間だけだが在籍したことがあり、木内の人となりを知っていたのだ。

 木内は前出の自伝に書いている。<優勝しちゃったもんだから、すごい噂が立っちゃったりしてね。契約金2000万円の豪邸つきとか。真相はな、契約金200万円の給料35万円なんだよ。それをオレは100万円の25万円に、こっちの方から下げてもらったの>

 仁志敏久(後に巨人、横浜)が入部してきたのは、木内が常総の監督になって3年目の1987年。木内に評価されるきっかけは、練習試合のバントだった。ランナー一塁の場面で、仁志がバントの構えをすると、一塁手、投手、三塁手が突っ込んできた。ところが、打球はピッチャーの頭上を越え、マウンド付近に落ち、ヒットになった。「すると一塁側の常総学院ベンチから、木内監督の声がした。『仁志は相手の動きをよく見てる!』」(仁志敏久『わが心の木内野球』) 木内は仁志のバントミスを承知のうえで、他の選手に守備位置を見る大切さを説いたのだった。

 木内は仁志を「県西の山猿」と呼び、可愛がった。ガッツ溢れるプレーを評価し、1年生ながら正遊撃手に抜擢。常総学院は茨城大会を圧勝し、優勝候補として甲子園に乗り込んだ。仁志は木内の期待に応え、準々決勝の中京戦では8回裏、木村龍治(後に巨人)からダメ押しとなるセンターオーバーの2点ランニングホーマーを放ち、チームの勝利に貢献した。

 準決勝の東亜学園戦は、白熱した好ゲームになった。両チーム無得点のまま迎えた6回表、一死から東亜の3番・広瀬秀之(左翼手)が打ったショートゴロを、仁志が一塁へ悪送球。打者走者は二塁へ進み、4番・小関章(一塁手)がレフト線へ二塁打を放ち、東亜が1点先行した。

 ベンチの木内は、すっかりお冠だった。「お前らの戦う姿勢には、失望したっぺ」常総打線は、東亜の川島堅(後に広島)に3安打しか打てず、イライラが募っていたのである。

「同点になったら、負けない指示を出してやっぺ」そう言い残し、ベンチ奥に引っ込んだ。にもかかわらず、エースで5番の島田直也(後に日本ハム)には、「全打席、本塁打を狙え」と耳打ちしていた。実際、島田は8回裏、レフトへ同点ホームラン。木内が出っ歯を剥き出しにして最前列に舞い戻ったのは言うまでもない。

 延長10回裏、先頭の島田がライト前ヒットを放つと、次打者の仁志を呼んだ。「6回の点(エラー)は、おまえが取り返せ」気持ちの強い仁志の心に火をつけたのである。仁志は1球目をファウル。東亜の副島正之捕手はそれを意図的なものと判断し、バントシフトを内野陣に指示した。しかし、木内が仁志に出したサインは、バントではなく、ヒットエンドラン。仁志がフルスイングすると、打球は大きくバウンドし、投手の頭を越えた。慌てたショートの西村英史が、一塁へ悪送球。一塁から島田が生還し、常総が2対1でサヨナラ勝ちを収めた。

「相手の裏をかかなきゃ、勝利はないっぺ。バントで二塁に送るような弱気な作戦じゃ、川島君は打ち崩せないっぺ」(木内) 2003年夏の甲子園大会決勝も、木内はマジックを繰り出し、東北高校のダルビッシュ有を攻略。深紅の大優勝旗を再び茨城に持ち帰ったのであった。(文中=敬称略)

高校野球100周年記念「甲子園名将列伝」木内幸男監督(取手第二高校、常総学院高校)

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