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時の政府とのいびつな関係?「天皇陛下と生前退位」5つの謎

[週刊大衆2016年11月14日号]

時の政府とのいびつな関係?「天皇陛下と生前退位」5つの謎

 天皇陛下が8月にビデオメッセージで「生前退位」の“お気持ち”を述べられてから、3か月。有識者会議が開催され議論されているが、この「生前退位」とはどういうものなのか? 10月28日に新刊『日本人が知らない「天皇と生前退位」』を上梓したカリスマ歴史講師の八柏龍紀氏が「生前退位」にまつわる5つの謎を解説する。

謎その1:天皇は生前退位をするのが当たり前だった?

 時代に合わせて天皇に求められる役割も変わってきたという。ケガレを祓う役割、為政者の役割、文化庇護者の役割、君主の役割だ。

「そもそもは、ケガレを祓う役割でしたから、ケガレのない若い天皇を求めたことがあります。たとえば、平安時代の清和天皇(在位858年~876年)の時代は、驚くほど多くの天変地異が起きた。京の都の大洪水に始まり、大火の連続、天然痘の大発生、大飢饉、大地震、赤痢大流行、富士山噴火、大干魃、陸奥一帯での大地震(貞観大地震)、関東でも大地震が起きるなど、その被害は筆舌に尽くしがたいものでした。そこで清和天皇は27歳で退位・出家し、修行僧も驚くほどの絶食をともなう激しい仏道修行を通じて、この時代の天変地異への折伏鎮撫をはかった。その結果、天皇は31歳の若さで没したのですが、当時のこうした災厄は、神であるとともに祭祀者である天皇が鎮撫すると信じられていました」(八柏氏=以下同)

 天皇はそもそもケガレを祓う存在であったため、経済力の源泉となる荘園などは持つことはできない。平安時代の後期には、上皇になれば、荘園の経済力を手にでき、政治にも関われるようになったことから、院政がはじまり、次々に生前退位を行うようになった。このため、日本の歴史を振り返ると実は今上天皇を含めて125代(南北朝期の北朝を除く)天皇のうち、すくなくとも7世紀の大化の改新以降、明治天皇までの88代中、60代ほどが「生前退位」しているのだ。

謎その2:最初に生前退位した天皇は誰?

 皇統について、古い時代のもので残っているのは史書『日本書紀』であり、この史書は、この時代の中国の史書の形態をならい、持統天皇(在位690年~697年)の意向が強く反映されたものだ。

「『日本書紀』によると初の生前退位は、645年、乙巳の変(大化の改新)後に、女性天皇である皇極天皇(宝皇女)が同母弟の軽皇子(孝徳天皇)に譲位した時です。退位した皇極天皇はその後、孝徳天皇の死去にともない、再度、天皇に即位し、斉明天皇となります。このように一度退位した天皇が再び即位することを重祚(じゅうそ)といいますが、斉明天皇は初めて重祚した天皇でもあります。この時代は、中大兄皇子、古人大兄皇子、山背大兄王と男性の皇位継承者が3人もいたのですが、激しい対立を避けるために、異例として皇極天皇がおかれたという見方もあります」

謎その3:最後に生前退位した天皇は誰?

 それは18世紀の江戸時代後半に即位した光格天皇ということになる。そして、この時代にはけっこう“綱渡り的”な皇位継承がなされていた。

 その最大のピンチは、1771(明和8)年、後桃園天皇が男子を残さず22歳という若さで崩御したことだ。このため、傍流の閑院宮家から「祐宮」(のちの光格天皇<在位1780年~1817年>)という皇子に即位させる。「天皇が傍流だと、権門公家よりもその地位が軽んじられる。だからこそなのか、光格天皇は朝廷儀式の普及に熱心に取り組み、学問も身につけ、政務もしっかりとこなす勤勉な天皇となりました」

 当時、幕府で定めた「禁中並公家諸法度」では、親王は三公(太政大臣、左右大臣)の下と定義されており、光格天皇の父親、典仁親王もその地位にあり、そこで光格天皇は典仁親王に「太上天皇」の尊号を贈ろうと考えた。しかし、当時の老中・松平定信はそれを前例がないとしてはねつけた。「実はそれ以前に京都で大火があり、その際に御所も燃え、御所再建となったとき、朝廷側は華麗で伝統的な御所再建策を幕府に提出し、幕府側と対立していました。その再建費用を出す側の幕府は財政困窮の折、朝廷案に異議を唱えたが、朝廷側はそれを押し切ったのです」

 そのしこりが、この尊号問題に現れた。結局、光格天皇の再度にわたる要請は却下されたが、明治の時代に入って明治天皇は典仁親王を皇高祖と位置づけ「慶光(きょうこう)天皇」の追号を許した。

謎その4:天皇が終身制になったのは?

 明治期の帝国憲法発布のときに皇室典範に定められたときから。「この問題は、一般に『高輪会議』といわれる会議で議論されています。伊藤博文は当時のヨーロッパの皇帝をモデルに天皇の制度をつくるべきだと主張します。そして国家意識の高揚のため天皇を国家統合の支柱にする。そこでその地位を不動のものにする意味で、終身制を主張します。それに対して、法制官僚で宮内省図書頭(ずしょのかみ)の井上毅(こわし)は『生前退位』を認める立場でしたが、結局、国家統合の支柱としての天皇の役割を必要とした明治国家は、天皇の終身制を決め、これが現在まで続くというわけです」

 また、この時代に「万世一系」という考え方も生まれている。「“万世一系”という言葉は、昔からあるわけではないのです。実際、皇統はさまざまな経緯を経て、天皇家の血統に連なる一族によって継承されてきたわけで、子から親という系譜では必ずしもないのです。ですから江戸時代のおしまいのころに藤田東湖という学者が“万世一姓”という言葉を使っていたことは確認できますが、実際は明治憲法を作る際に、天皇の神格性を高める意味で、岩倉具視あたりが使いはじめたのが、最初です」

 つまり、このように現在ふつうとされている天皇に関する事柄は、明治時代以降の所産と言ってもいいのだ。

謎その5:昭和天皇も生前退位したかった?

 皇室典範は戦後、米国中心のGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の下、憲法と同様に改正が行われた。しかし、その内容の多くは戦前から引き継いだもので、天皇の行為は内閣などが認める国事行為に限定され、戦前まで非公開とされた皇室典範が公開されるようになり、皇室会議なども民主化された以外、天皇の終身制などはそのままにされた。

「事実、敗戦直後と、極東国際軍事裁判の判決時(1948年)、サンフランシスコ講和条約による独立時(1951年)に昭和天皇は『生前退位』すべきだという意見、これはかつての内大臣だった木戸幸一や当時、衆議院議員であった中曽根康弘などが主張したものですが、そこで天皇自身もその旨を側近に漏らしたとも伝えられています。しかし、そうなると、ときの首相であった吉田茂もセットで退陣ということになる。しかも、東西冷戦の時代にあって、この時期の退位は、共産党などの国内における天皇制反対を唱える勢力を拡大化させるという意味もあり、天皇をそのままにしておきたいという勢力が優勢を占め、退位の話はないことになりました」

 そうしたことを考えると、現在の安倍政権は占領国による“押しつけ憲法”はダメで、自主憲法を作るということを声高に主張しているのに、天皇の問題では、戦後一貫して何も考えずに放置してきた流れを、そのままにしているようにも見える。

 現憲法における「国民統合の象徴」であり、「国民の総意」によって位置づけられている天皇陛下という存在について、今一度、国民が真剣に考えるためにも、過去、時々の政府や権力者によって翻弄されてきた天皇という存在に目を向けることが必要なのかもしれない。

※歴代の生前退位した天皇たちと、それを取り巻く政治状況を通して今上天皇の「生前退位」お気持ち表明を考える話題の新刊『日本人が知らない「天皇と生前退位」』(八柏龍紀著=1000円+税)は絶賛発売中!

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