若松宗雄(撮影・弦巻勝)
若松宗雄(撮影・弦巻勝)

 CBSソニー(レコード会社)のプロデューサーだった私にとって、「松田聖子」との出会いは衝撃的なものでした。

 1978年5月、私は、あるオーディションの応募者たちの歌を聴いていました。数にして200曲、つまり200人分ほどあったでしょう。先入観を持たないように応募者の写真や履歴書は一切見ないで、純粋に歌だけを聴いていました。 

 その途中、1本のカセットテープを再生した瞬間、私はある歌声に引き込まれることになります。「これはすごい声を見つけたぞ」と。声の主は、当時16歳の蒲池法子。のちの松田聖子でした。

 私はさっそく、福岡県久留米市に住む彼女に連絡をとって、会いに行きました。目の前に現れた少女は、清楚で、愛らしくて、品があって、余分なものは何もなかった。ますます彼女のことが気に入って、その場でデビューさせるという約束までしてしまったんです。

 そして79年の夏、芸能界入りに反対するお父さんをなんとか説得し、彼女は上京。私は翌年の春にはデビューさせようと思っていました。しかし、やっと所属がかなった事務所では、2月に別の有力新人をデビューさせることになっていた。優先順位はそっちが先で、二番手扱いの聖子はデビューをずっと後回しにされそうな雲行きでした。

 ところが、上京したての聖子を、いろいろな現場に連れて歩いていたら、「あのコ、なかなかいいじゃない」とたくさんの人に言ってもらえた。彼女のタレントとしての資質の高さに、多くの人が気づいたということですよね。結局、聖子に対する評価は短期間でガラリと変わり、デビュー日は予定よりだいぶ早まって、90年4月1日に決まりました。

 会社の稼ぎ頭だった山口百恵さんが引退を発表したのが3月だったので、計算されたようなタイミングに見えたかもしれませんが、これはたまたま。“ポスト百恵”を意識していたわけではなく、松田聖子を早く世に出したかっただけだったんです。

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