「二大王統論争」もある古代史の謎「倭の五王」はいったい誰なのか!?の画像
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 五世紀の四二一年から四七八年に掛け、古代中国の王朝「宋」へ日本から数回にわたって使節が遣わされ、そのたびに宋の皇帝から大王に「安東将軍」などの官職が与えられた。

 大王、すなわち天皇が宋の皇帝の臣下として将軍に任じられた形となり、これを朝貢冊封関係という。

 天皇がそこまでしたのは、宋の皇帝を後ろ盾として、その威光によって国を治めようとしたからだ。

 また、鉄の供給源だった朝鮮半島で権益を確保するための保証を宋の皇帝に求める狙いもあったという。

 しかし、四七八年を最後に事実上、朝貢が絶えるのは、その翌年に宋が滅亡してしまい、後継の王朝(南斉)に宋ほどの権威がなかったことが理由の一つだが、最初の使節から半世紀が経過し、中国皇帝の後ろ盾がなくても国内を統治できるようになったのが最大の理由だろう。

 ここでの問題は、朝貢した天皇の名だ。宋王朝の正史『宋書倭国伝』(以下『宋書』)には、「倭国王」などとして、讃、珍、済、興、武の名が記されている。この五人を古代史では「倭の五王」と呼ぶ。

 しかし、それらはあくまで中国側の呼称であり、『古事記』『日本書紀』(以下『記紀』)では別の諡号(貴人の死後に奉る名)が贈られている。

 それでは、讃から武に至る倭王は誰と誰に当たるのか。古代史の謎の一つに挑んでみたい――。

「倭の五王」の名を比定(他と比べて推定すること)するに際し、障害となっているのが『宋書』と『記紀』で王の続柄が一致しないこと。『宋書』によると、讃と珍は兄弟、済と興、済と武はともに父子。つまり、興と武は兄弟となる。

 一方、『記紀』によると、「倭の五王」の候補となる七人の天皇のうち、応神と仁徳は父子、履中、反正、允恭は兄弟、さらに允恭の子が安康と雄略。

 以上の続柄を整理すると、『宋書』の興と武が兄弟で、『記紀』の安康と雄略も兄弟なのだから、この二人については「興=安康天皇」「武=雄略天皇」と見てよさそうだ。

 特に「武=雄略天皇」説は、埼玉県稲荷山古墳(行田市)で鉄剣が発見され、ほぼ確定したといえる。

 その鉄剣には、雄略天皇とみられる大王の名とともに「辛亥年七月中記す」という製作年代が刻まれていたからだ。辛亥年は四七一年に当たり、倭王武が宋に朝貢した年代とも矛盾しない。

 さらに『宋書』は興と武の父を済、『記紀』は安康と雄略の父を允恭とし、その続柄などから通説は済を允恭天皇に比定している。

 そこまでは矛盾がない。問題はここからだ。『宋書』と『記紀』ともに、讃と珍、履中と反正と允恭を兄弟とし、その順に当てはめると「讃=履中天皇」「珍=反正天皇」となるが、ここで一つ目の矛盾が生じる。『宋書』に倭王珍と倭王済の続柄が記載されていないことだ。続柄が分からないから、珍(反正天皇)と済(允恭天皇)が確実に兄弟だったと言えなくなる。

 つまり、この二人を兄弟とする『記紀』の内容と矛盾してしまうのだ。

 その一方で、こういう説もある。『梁書』という中国側の史料に〈弥死、立子済〉(=弥が死んで子の済が立つ)と記され、弥は珍の字が変じたものとする解釈に従って「弥=珍」と見ると、ここでは珍の子が済だというのだから、允恭天応を仁徳天皇の子とする『記紀』と合致する。

 よって「倭の五王」のうち、珍を済の父である仁徳天皇に比定できるわけだ。

 しかし、そうなると、珍(仁徳天皇)の兄である讃に当たる天皇が『記紀』の記述に見当たらないという問題が生じる。これが二つ目の矛盾だ。

 しかも、『梁書』は、後世の唐の時代に編纂された史料で、「倭の五王」についての記述は『宋書』に比べて分量が少なく、このため、「倭の五王」の研究では『宋書』を優先するのが一般的。

 そうなると、やはり、『宋書』で珍と済の続柄が不明だという問題に立ち返らざるを得ない。

 同書では〈讃死、弟珍立〉、〈済死、世子興遣使〉、〈興死、弟武立〉とあって、珍と済の続柄を除き、すべての倭王の関係を明らかにしている。

 それなのになぜ、この二人の王の関係だけ記さなかったのか。もちろん書き漏らしの可能性も考えられる。

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