■「宋書」の記述により「二大王統論争」が勃発
しかし、『宋書』で済が初めて登場するくだりが〈倭国王済遣使〉。倭国王が済に代替わりしたので、改めて朝貢してきたと読み取れる紹介の仕方だから、前王である珍との続柄がはっきりしていれば書いているはず。
それでも続柄を記載していないのは、関係が不明だったためと考えるのが自然だろう。
もっというと『宋書』は珍と済の関係が父子でも兄弟でもなかったため、あえてその関係を記さなかったと考えられる。ここに「倭の五王」の讃、珍グループと済、興、武のグループとで王統(王の血筋)が異なるという解釈が成り立つ。
これを「倭の五王」の二大王統論争といい、まだ決着がついていない。
それでは、珍から済への王位継承が父子、もしくは兄弟でなかったとすると、なぜ『記紀』は、倭王済に比定される允恭天皇の父を仁徳天皇としたのだろうか。『記紀』の編纂が始まった七世紀後半は、ようやく日本の王権が父から子へ直系で相続され始めた時代。
前天皇との関係が不明なケースはすべて、当時の考え方に基づいて父子相続としたという解釈だ。
よって『記紀』では仁徳と允恭との続柄を父子としているが、疑ってかかる必要が出てくる。
つまり、『記紀』より信頼できる『宋書』が讃、珍グループと済、興、武グループに連続性がないと匂わせたことによって、「倭の五王」の比定という問題が二大王統論争を生んだ形だ。仮に倭王珍を仁徳天皇とすると、彼からなんらかの事情で王統が異なる允恭天皇(倭王済)へ継承されたことは否定できない。
それでは、倭王讃は誰だったのだろうか。『記紀』では応神天皇の時代に朝鮮から使節が来日し、その時代に朝鮮半島問題が外交課題になったことを考えると、初めて宋に朝貢した倭王讃は応神だとしたい。
その場合、『記紀』でいう「応神、仁徳」の父子関係との矛盾がここでも生じるが、『宋書』(兄弟関係)を優先すべきだと考えている。