「ルーツは?」「いつ姿を消した?」“武装僧侶”僧兵「興亡の歴史」!の画像
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 白い袈裟頭巾をまとい、黒の僧衣に葛袴。高下駄を履いて腹巻(鎧の一種)を身につけ、手に薙刀を持つ――ご存じ武蔵坊弁慶で知られる僧兵の出で立ちだ。

 僧兵はその名の通り武装した僧侶のこと。平安時代の末に白河法皇が「賀茂川の水、双六の賽、山法師(比叡山延暦寺の僧兵のこと)、これぞ朕ち ん(法皇)が心に随したがわぬ者」と嘆いた話は有名だ。

 白河法皇の時代、しばしば氾濫した賀茂川や、どの目が出るかわからない双六と同じく制御できない存在だったのだ。

 その僧兵はどうやって誕生し、また、表舞台から消えていったのだろうか。その謎多き興亡の歴史を辿ってみよう。

 まず、「僧兵」という言葉が使われるようになったのは江戸時代からで、それまでは一般的に「悪僧」などと呼ばれた。この場合の「悪」はそのままの意味ではなく、「強い」と解釈されている。

 一般に僧兵の生みの親は慈恵大師良源だとされている。平安時代半ばに生まれた天台宗の僧で延暦寺のトップ天台座主になった高僧だ。『山家要記浅略』という史料に、修学に不向きな僧侶を集めて「武門一行の衆徒」と成したという記述があり、彼らが後の僧兵だといわれる。

 こうして良源が仏法を護持するため、“落ちこぼれの僧侶”に武器をとらせて武芸を習わせたという説が一般に知られるようになった。

 しかし、『山家要記浅略』は室町時代の史料で内容の真偽が疑われており、良源は逆に「寡頭の者(僧兵のこと)」を禁じる法令を出し、武器を持って僧房に出入りすることなどを禁じた。

 そこから良源が当時、すでに力を持ち始めていた僧兵たちをコントロールしようとしていた事実が窺われ、実際に僧兵たちは良源の意に服したとみられる。このため、後世、良源が僧兵の創始者と誤解されるようになったのではなかろうか。

 このように良源が創始者でなかったのは確実だが、以上の話から平安時代半ばには、すでに僧兵が誕生していたことが分かる。それでは、彼らは実際に、いつ産声をあげたのか。

 はっきりした年代は不明だが、早くも奈良時代にその姿が見てとれる。恵えみのおし美押勝か つ(藤原仲麻呂)が七六四年に孝謙上皇らに反乱した際、政府軍に協力した「諸寺の奴ら」がいたという(『続日本紀』)。

 この「奴」というのはいわゆる奴婢内、男性の奴隷をいい、武装していたことから政府軍に協力したとみられる。

 彼らはもともと農民だったが、政府の厳しい税の取り立てに耐え切れず土地を捨てて逃げ出し、奴隷として売買された者らと考えられている。

 当時の都だった奈良(平城京)には東大寺、興福寺、大安寺、法華寺などの大きな寺があり、諸寺に「墾田一千町」(『続日本紀』)ほかの土地が与えられた。それが寺の経済的基盤だった。

 しかし、「墾田」とあるように土地を耕すのに人手がいり、諸寺はそれを「奴」らにやらせた。しかも、当時は盗賊などが横行していたから、土地を拓いてコメや農作物を作り、それらの財を守るためには彼らも武装する必要があり、こうして僧兵が誕生するのだ。

 つまり、僧兵の起源は武装した「奴」だったとみられるが、僧兵がより大きな勢力となるために必要だったのが、寺に雇われて雑用に従事した「雑人」たち。やがて彼らが雑用から解放され、仏法を護持するという名目で武装化していったようだ。

 そこへ後に武士となる豪族の子弟らが加わった。たとえば、藤原氏の氏寺である興福寺と一体の関係にある春日大社(藤原氏の氏神を祀る)に土地を寄進し、その「神人」(下級の神職)となった豪族たちだ。その豪族(神人)らが興福寺の僧兵を兼ねた。

 こうして「大衆」(雑人)や「国民」(神人)と呼ばれる興福寺の僧兵らは寺の財産を守るという本来の役割以上の動きを示し始める。それが強訴(徒党を組んで訴えること)だ。一般的に僧兵の強訴の初めは寛治七年(1093)のことだとされる。

 春日大社の社領(近江国)で国司が神人に乱暴を働いたことが原因となり、興福寺の僧兵らが春日大社の神木を担ぎ出し、大挙して入洛。国司の罷免を訴えた。

 結果、朝廷は僧兵らの要求を受け入れ、国司は任を解かれ、土佐へ流罪となった。興福寺も春日大社も国家鎮護を担う重要な社寺であり、朝廷も彼らに従うしかなかったのだろう。

 一方、平安京の鬼門を守る鎮護国家の寺として比叡山に創建された延暦寺の僧兵(堂衆、大衆と呼ばれる)もやはり、寺じ 務む (寺院の事務)に携わる者が武装化していったことに起源がある。彼らはそれぞれ阿闍梨などの高僧に仕えていたが、やがて師匠の高僧の言うことを聞かず、里で脅しなどの悪事を働くようになったという(『源平盛じょう衰す い記』)。

 また、強訴の際には比叡山の麓に鎮座する日吉大社の神輿を奉じた。よく「大衆三千」などという表現をするが、延暦寺は常時、その程度の勢力を保っていた。

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