■織田信長らが出現して僧兵は一気に衰退した
こうして同じようなメカニズムで平安時代にかけて各地で僧兵が誕生。興福寺や延暦寺の他にも園城寺(滋賀県大津市)や多武峯寺(奈良県桜井市)、金峯山寺(同吉野町)、根来寺(和歌山県岩出市)などが有名で、これら武力を持った寺同士の抗争も絶えなかった。
中世(鎌倉、室町、戦国)を通じて栄えた僧兵だが、織田信長をはじめ、統一権力が出現すると、一気に衰退していった。信長は元亀二年(1571)九月に比叡山延暦寺を焼き討ち。興福寺の寺領も削減した。
後に天下を取る豊臣秀吉も天正一三年(1585)、根来寺を焼き討ちしている。
そもそも延暦寺と信長が対立した発端は、織田家による延暦寺領の横領にあり、寺やその経済基盤である所領を守るために誕生した僧兵たちも、織田家や豊臣家のような大勢力が現れると対抗することができず、その存在意義が失われていったのだ。
結果、諸寺は統一権力から信仰を集めることで生き残りを図り、興福寺と春日大社も秀吉の検地に従い、合わせて領地が二万一〇〇〇余石と定められた。また、兵農分離政策によって存在意義がなくなった僧兵たちは百姓となり、組織は事実上解体されてしまうのである。
跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。