プロレスファンを熱狂させた“テキサスの荒馬”、テリー・ファンクが8月23日、79歳で亡くなった。
1970年に日本プロレスに兄のドリーと共に参戦し、初来日。当初はNWA世界ヘビー王者だったドリーに比べ、粗さが目立ったが、翌年12月、兄弟タッグで馬場&猪木のBI砲を破り、インタータッグ王者を獲得。トップ外国人レスラーの仲間入りをした。
「全日本時代、ブッチャーとの抗争で人気が爆発した際は、テリーの流血姿に失神する女性ファンが続出しました。甘いマスクで女性人気が高く、親衛隊ができたほど。ただ、宿泊先のホテルにウエディングドレス姿の女性が現れ、“テリー、結婚して!”と求婚された際はさすがにビビったそう(笑)」(専門誌記者)
レスラーとしてだけでなく、全日本プロレスのブッカー(出場交渉人)としても活躍していたテリー。海外遠征時、テリーの家に居候し、“兄貴”と慕うようになった大仁田厚氏は、こう述懐する。
「ジャイアント馬場さんに依頼されて、テリーが新日本からスタン・ハンセンを引き抜いたこともあるそう。ハンセンはテリーの教え子でしたからね」
■新日本プロレスへの対抗心
新日本プロレスへの対抗意識も激しかったという。
「『テリー・ファンク自伝』によると、アントニオ猪木の異種格闘技戦で盛り上がっていた新日本に、危機感を抱いたテリーがブッチャーをけしかけて、フォーク攻撃をさせたといいます。猪木とは日プロ時代、ノンタイトル戦で引き分けており、試合の手は合う相手でしたね」(ベテラン記者)
テリーは2度の引退を挟み、40代半ばでイスやテーブルを使ったハードコア・レスリングを確立した。
「米最大の団体を89年に離脱後は、過激なデスマッチが売りの団体などにも参戦し、若手選手と血と汗を流しました」(前同)