ところが、1600年、輝元は関ヶ原の合戦で、そのタブーを破り、天下を賭けて西軍の総大将に就任。家康率いる東軍と真っ向から勝負してしまったのだ。「勢力は西軍が多かったにもかかわらず、東軍が快勝。毛利家は外交の限りを尽くし、領土を30%以下にまで大減封されながらも、なんとか、お家存続に成功しましたが、元就の遺言通りの結果となってしまいました」(前同)

 その“関ヶ原”では、別のタブー話も生まれている。岐阜県の関ヶ原に、それぞれ10万以上の兵力を率いて対峙した東軍と西軍。西軍が人数で勝るうえに要衝を押さえ、合戦途中までは押せ押せだったにもかかわらず、結果的に東軍が快勝したのは、小早川秀秋の裏切りがあったからだった。

 秀秋は、亡き秀吉の数少ない血縁者だったため、豊臣家寄りの西軍で中核として要地に君臨。軍勢も1万5000と、同軍で2番目の巨大陣営だった。それが合戦の途中で突如寝返り、戦の行方は急展開。西軍は一気に敗走を始めた。「寝返った秀秋は、まずは目の前にいた西軍奮戦の立て役者、大谷吉継軍を急襲しました。まさかの裏切りに、吉継は目を真っ赤にして“人の顔をした獣め。必ずや3年のうちに祟り殺してやる”と言い残してから自害して果てました」(同) 肝が冷えるほど怖い話だが、一方で秀秋は、関ヶ原での勝利を呼び寄せたとして、筑前・名島30万石から、備前・岡山55万石へと栄転。わずか21歳にして、大大名となった。やはり呪いなんて迷信かと思われたが、関ヶ原から2年後、秀秋は突然、死んでしまうのである。原因は分かっていない。寝返りというタブーを犯したからこその、呪いにかかったからこその顚末なのだろうか。

 裏切りとは戦国時代にあってもタブーだったが、この時代に最も裏切られた武将をご存じだろうか。答えは、織田信長。明智光秀に裏切られて死したのは有名だが、その生涯で兄弟、家臣を含む50人以上に裏切られている。いくら性格が苛烈だったとはいえ、こんなにも人に裏切られる人間はそうそういない。

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