一般的に真田家とは、信州の名門・滋野党の一員だったとされる。滋野党とは、平安時代前期に海野平に土着した、清和天皇の皇子の子孫といわれる家だ。滋野党はその後、海野氏、望月氏、禰津氏に分かれるが、真田氏は自らの家を海野氏の庶流としている。しかし、跡部氏はその著書の中で、この家系にも疑問があるとしている。それは、「出自の捏造」だ。そして、これは真田家の家紋「六文銭」の“無断使用”にもつながる問題だという。

 真田家は、海野小太郎という男が真田幸隆であり、武田信玄に仕え、本領である真田郷(現・長野県上田市)を奪還した際に、その名を取って氏名を海野から真田に変えたとしている。ところが、それよりもはるかに時代を遡る1400年には、すでに真田家(実田家)が禰津家の配下として「大塔合戦」に参陣していることが明らかになっている。そのため、「真田家」が発生した時系列に大きな矛盾ができるというわけだ。家系を捏造としたとすれば、海野家の代表的な家紋だとして、真田家でも使用していた「六文銭」の家紋との関係性にも疑義が出てくる。つまり、実際には関係ない他家の家紋を無断使用したというわけだ。とはいえ、跡部氏も述べているのだが、江戸時代の大名家というのは、それぞれの家系を由緒正しく見えるように“創作”するのが普通のことであり、徳川家ですら“家系操作”をしていた。なので、真田家のルーツに関しても、その範囲内と見ていいだろう。

 一方、幸隆が信玄の旗下に入ることで、真田郷を得たのは事実である。その際、三男・昌幸を人質として差し出したが、これが昌幸の、そして幸村の人生に大きな影響を及ぼすことになる。当時、信玄は日本最強の軍団として恐れられていた。兵馬の強さはもちろん、調略や情報収集など、すべてが超一流だった。天下布武を掲げて領土を拡大し、将軍にも頭を下げなかった織田信長ですら、信玄には“へりくだり外交”を展開したほどだ。昌幸は、その信玄の奥近習衆(側近)に抜擢されたことで強さの秘訣を吸収し、それが、昌幸・幸村父子の数々の戦功を生み出す源となった。

 実際、NHK大河の主題でもある「真田丸」(大坂の陣の際に幸村が大坂城の弱点部分に構築し、徳川家を苦しめた砦)も、信玄が好んで構築した「馬出し」の巨大版であり、武田流軍事の一つに他ならない。真田丸以外にも、このような事例は多数あるので、真田家の華々しい戦歴は、独創的な発想によるものではなく、信玄が編み出した手法に基づいて生まれたものと言っていいのだ。

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