ちなみに、幸村関連の小説などで華々しく描かれることの多い「第一次上田合戦」だが、実は幸村が、この合戦に参戦していたかについては疑問が残る。確かに、『上田軍記』や『真武内伝』には「信繁」の奮戦ぶりが克明に描かれているが、実際にはその頃、幸村は上杉家の人質になっていたのである。

 武田家滅亡の後、真田家は徳川、北条、上杉の三強に囲まれる。そこで昌幸は、北隣の上杉家に幸村を人質に出すことで、他家の脅威から守ってもらっていた。「上田合戦は徳川家が真田領に攻め込み、その本拠・上田城を攻め落とそうとする戦い。徳川家は上杉家にとっても敵対関係にあるのに、その戦の最中に、真田家に人質を返す道理はありません」(専門誌編集者)

 2000の兵で8000もの徳川軍を退けたという勇猛さは作られたもので、実際は人質生活を送っていた――幸村ファンにとっては、衝撃の真実だろう。さらに幸村は、上杉家での人質生活を終えると、今度は豊臣家の人質になる。その間、幸村が戦に出陣していたとの確証はなく、秀吉が天下統一を成し遂げた「小田原合戦」が初陣との見方もある。

 となれば、後に“関ヶ原”直前に火蓋が落とされ、3000の兵で4万近い徳川軍を撃退した「第二次上田合戦」が、初めての合戦らしい合戦ということになる。猛将の名をほしいままにする幸村のイメージとは、あまりにかけ離れた素顔だ。

 関ヶ原の合戦後は、徳川家に歯向かったために紀州・九度山で蟄居生活を余儀なくされる、昌幸・幸村父子。10年以上の幽閉を経て、大坂の陣に参戦。徳川家康を危機に陥れたことは、紛れもない事実である。そして、大坂の陣の最中に、親戚であり、同時に自ら槍を交えて、その強さを認めた奥州の大大名・伊達政宗の重臣・片倉家に、次男・大八を預けたのも事実だ。当初は、徳川家をはばかり、片倉姓を名乗っていたが、後に真田姓に復姓。現在も、仙台真田家として続いている。幸村には、大坂の陣の際に、なんとか生き延び、秋田県や鹿児島県で隠遁生活を送ったとの伝承もあるが、それを信じるか信じないかは、あなた次第だ。

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