「100作中99作品が偽物」!?豪快すぎる酒好き「江戸三大画家」のひとり・谷文晁が「贋作ばかり」になった理由の画像
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 二〇〇九年にこの世を去った俳優で美術評論家としても活動した渥美国泰。彼が自身の著作で、長寿テレビ番組『開運!なんでも鑑定団』(テレビ東京系)が募集した作品二〇〇余点すべてが贋作だったとした江戸時代の画家が谷文晁だ。

 文晁は狩野探幽や円山応挙とともに江戸時代の三大画家と評される一方、明治の評論家で小説家の内田魯庵は著書『バクダン』で、この三人中、最も贋作が多いとし、〈百幅の中の九九幅までが贋作〉と指摘。

 ある伯爵家が所蔵する絵を展覧会出品に向けて鑑定に出したところ、まさに贋作だったという逸話も掲載されたようになぜ、そんなに多くのニセモノが氾濫したのだろうか。

 谷文晁は宝暦一三年(1763)の重用の節句(九月九日)に江戸下谷根岸で生まれた。父親は幕府御三卿の田安家に普請奉行として仕えた武士で、詩作に秀でていたというから文晁の芸術的な才能は親譲りだったのだろう。

 彼は一〇代前半の頃に当時、画壇を支配していた狩野派の絵師に学んだものの、その型通りの手法に他の才能ある画家と同様に満足することができず、やがて南宗画(中国山水画の様式の一つ)に傾倒。

 探幽や応挙と並び称されるようになった背景には天賦の才に加え、熱烈な“パトロン”の存在があり、それが田安家から白河藩主を経て幕府老中になり、寛政の改革を断行した松平定信である。

 文晁は田安家に出仕していた三〇歳のとき、定信付きを拝命。当時、幕府の老中だった定信がこの頃から文晁の才能に気づいていたかは分からないものの、この出仕が文晁の転機になったことは間違いない。

 彼は定信が隠居するまでの二〇年間、近習及び、絵師として仕え、主に江戸で活動しながらも主君とともに白河に赴くこともあり、他にも諸国巡見の供をした。

 たとえば、文晁は寛政五年(1793)、定信の江戸湾沿岸諸国巡見に随行した際、各地の景勝を描き、これが『公余探勝図』として世に広がると、知名度が一気にアップ。文晁は「写山楼」と号し、すでにこの頃、江戸で同名の画塾を開いていたが、彼がこの随行中に富士山を描いたことから定信にその名を賜ったとされる。

 文晁はこの三年後、考古癖のあった定信から畿内の古社や古寺、旧家に伝わる古い宝物類を探し出して写し描くことを命じられ、西国に出発。それらは寛政一二年(1800)、今でいう古宝物図録集に当たる『集古十種』として結実し、これがまた、彼の名を高めた。文晁、このとき、三八歳。

 彼はこの他にも全国を旅し、日本六〇余州のうち、四、五ヶ国を除き、すべてを制覇したとされ、遊歴中に見た山河の風景が作品に生かされた。

 その文晁の性格は豪放磊落そのもの。還暦を過ぎた晩年には実際、こんな逸話を残している。

 文晁は不忍池弁財天の別宮で書画会が催された際に絵を請われると、座右に絵の具がなかったことから杯盤の上の煮魚の汁で代用。絵を頼んだ人はその即興の妙を喜んだとされ、彼のそんな性格は交遊関係にも表れている。

 文晁は儒学者の亀田鵬斎や画家の酒井抱一とともに「下谷の三幅対」と評され、各自が稼ぎ出した潤筆料(絵や文の報酬)でつるんで遊んでいた。

 中でもこの二人は、寛政の改革で朱子学以外の学問を禁じた政策(異学の禁)を批判。

 一方の文晁は定信に仕える身で、本来はそれこそ主君に忖度して交遊を差し控えるところ、彼の対応はまったく違った。

 文晁は二人とともに千住の商家の隠居に招かれ、一番の大酒飲みが誰かを競い合った際、鵬斎が「江の島」という名称の五合入り盃を傾けると、自身は「鎌倉」という名称の七合入りの大盃を一気飲み。

 この会には他にも数名、大酒自慢が加わり、彼らの駕籠舁にまで樽酒が振る舞われ、柄杓で救って飲み放題という大盤振る舞いだったため、お開きになったときは酩酊者が続出していたという。

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