■文晁の“印章”は誰でも使える状況にあった!
文晁は定信に仕官していたとはいえ、中年の頃には一〇〇俵ほどの報酬(八〇石)しかなく、自らに禁酒を課していたようだが、名声を得て十分な潤筆料を稼げるようになって以降は、堰を切ったように飲み始めた。もともと酒が好きだったのだろう。
実際、彼の門人が残した伝記(『写山楼の記』)によれば、毎日、朝から酒を飲み始め、それが夜になるまで続いたとされる一方で、他者に振る舞うことも忘れない。
毎月「二」と「七」は、門人らを指導する日で、その当日は近くの割烹店から仕出しを取って宴を開催した。
彼の誕生日だった重用の節句ともなると、わざわざ日本橋の魚市場から魚を大八車に載せて取り寄せ、楽人(雅楽の奏者)を雇って盛大な宴を繰り広げたという。
ただ、こうした豪放磊落な性格と、これに端を発した幅広い交際関係が災い。文晁はまともに顔も合わせたことがない篆刻家 (印章を作る人)から、制作依頼していない落款印を渡されることも多かった。
贋作の大量氾濫は、まさにそのためで、文晁作品鑑定の第一人者とされた昭和の画家である佐竹永陵は、〈一代の巨匠としてもてはやされたので、その当時(文晁の生きていた江戸後期)でも盛んに贋作が出来た。その当時に出来たものは、時代贋作とて、今日となっては最も鑑別に苦しむものである〉(『古今書画鑑定要訣』)と指摘。彼の子孫が本物の印章を使った贋作はむろん、特に鑑定が難しいという。
また、文晁の印章は生前、門人らの手の届くところに置かれ、誰もが使える状況にあったといわれる。
豪放磊落が過ぎ、ときに無頓着だった彼の性格が大量の贋作を世に生み出したと言えるだろう。
●跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。