武士出身の歌人で「古今伝授の祖」東常縁「謎の生涯と城奪還伝説」!の画像
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「わが君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」

 国歌『君が代』の元詞。『古今和歌集』に収められる一首だ。『古今和歌集』は我が国初の勅撰和歌集。醍醐天皇の勅命により、紀貫之らが延喜五年(905)頃に編纂した。小野小町ら「六歌仙」の歌を含み、その後、多くの歌人がこの和歌集を参考にした。歌人にとって、いわばバイブル的な存在だ。

 しかし、この和歌集が誕生して一〇〇年も経つと、歌の解釈にばらつきが生じてきたという。

 そこで、一首ごとの歌をどう理解すべきかという講釈が重視されるようになった。特に難解な歌の講釈が的を射たものであるなら、その方法そのものが「極意」とされるようになり、「秘伝」として師匠から弟子に引き継がれた。

 これを「古今伝授」という。工芸などのジャンルでその技を門外不出とするため、師弟相伝されるのと同じだ。

 その古今伝授を制度化して「創始者」となったのが東常縁。室町時代を代表する武士出身の歌人である。

 彼は武士としても歌で城を取り戻すという前代未聞の離れ業をやってのけた人物として名高い。

 常縁はなぜ、古今伝授の創始者になれたのか、そして、伝授は具体的にどんな形で相伝されていったのか――彼の生涯を振り返ってみよう。

 彼の先祖はNHK大河ドラマ鎌倉殿の13人』に登場する千葉常胤。下総国出身で鎌倉幕府有力御家人の一人だ。その常胤の六男・胤頼が下総国東荘(千葉県東庄町)を領し、東氏と称した。

 その後、孫の胤行が幕府から新たに美濃国山田荘(岐阜県郡上市)に領地をたまわり、本拠を下総から美濃へ移した。

 常縁の時代、一族は篠脇城(同)に居城していた。ちなみに、篠脇山麓の居館には池ち泉せんを配した庭園があり、この一族の文化的水準の高さを物語る。

 それではまず、常縁の武人としての経歴を確認しておこう。

 とはいっても、生涯を通じて彼の経歴には不明な点が多く、通説では九四歳まで生きたことになっているが、はっきりした生年と享年は不明。

 常識的な線で考えると、応永一四年(1407)に生まれ、文明一六年(1484)頃に亡くなったとするのが妥当だ(享年七八歳)。

 彼の父・益之(篠脇城主)は京の三条堀川にも屋敷があり、室町幕府の将軍家に仕えていたが、讒言によって周防国へ配流された。

 やがて許されるものの、美濃へ戻る途中に亡くなり、家督は常縁の異母兄に当たる氏数が継いだ。

 常縁はやがて、その兄の養子として城主となるが、文安年間(1444~1449年)頃には幕府奉公衆(将軍直臣)として八代将軍足利義政に仕えた。

 その後、関東で争乱が起きると、義政の命で出陣。その争乱には、もともとの一族だった千葉氏の内紛が絡み、関東各地を転戦する。武士としても期待されていたことが分かる。

 しかし、当時は応仁の乱(1467~1477年)の渦中。京で始まった争乱は美濃にも及んだ。

 当時、常縁は関東に出陣中だったため、城は兄の氏数が守っていた。そこへ、美濃守護代の斎藤妙椿の軍勢が攻め入り、城は落城した。『鎌倉大草紙』(鎌倉公方を中心とした室町時代の合戦記)によると、城を奪われたと知った常縁がそのことを嘆いた歌(堀川や 清き流れを へたてきて 住みかたき世を 嘆くばかりぞ)を詠むと、それを伝え聞いた妙椿は、「常縁はもとより和歌の友人。今、関東にいて本領(城)がこうなってしまい、不本意に思っていることだろう。我もこの道(和歌)の数寄(風流を好むこと)なので、どうして情けをかけないでいられようか。常縁が歌を詠んで送ってくれたら所領をお返ししよう」と言ったという。

 これは嘘のようで本当の話らしい。『雲玉和歌抄』という和歌集で「山田荘が横領されたときに詠んだ歌」として常縁の歌が掲載されたあと、妙椿の返歌に続いて「こうして山田荘は元のごとく(常縁に)返された」と結び、『鎌倉大草紙』の逸話を裏づけている。

 歌人としての常縁はこのように歌で城を取り戻すほどの才能があったわけだが、なぜ彼が古今伝授の創始者になれたのだろうか。

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