二朝分裂の皇統が一本化した――仮説の内乱「辛亥の変はあった!?」の画像
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 古代の壬申の乱に始まり、明治維新後の西南戦争まで、わが国は幾たびも内乱を繰り返してきた。

 しかし、「仮説の内乱」といわれるのは「辛亥の変」だけだろう。

 歴史学者がいくつかの史料を基に「内乱があったはずだ」と解釈しつつも、他の内乱のように各史料に確実に「あった」とは記されていないからだ。

 干支(十干と十二支を組み合わせた六〇年周期の数字)に基づく辛亥(西暦531)に当たる年に朝廷内でなんらかの異変が起き、三年後の534年に「欽明朝」と「安閑・宣化朝」に皇統が分裂。己未(539)の年に両朝の並立が解消され、合一されたという仮説だ。

 必ずしも両朝間で大きな軍事衝突があったわけではないが、不安定な政情を反映し、全国で地方の首長らの反乱が相次ぎ、わが国は全国規模で事実上の内乱状態にあったという。

 以上が、日本史の権威である林屋辰三郎氏(故人)らが主張した説だ。

 その両朝並立からおよそ八〇〇年後の建武三年(1336)に皇統は北朝と南朝に分かれ、両朝が合一される明徳三年(1392)まで、わが国は内乱の時代を迎えるが、林屋氏らの説が正しければ、古代にも皇統が分裂していたことになる。

「辛亥の変」と呼ばれる内乱は本当にあったのだろうか。順序立てて説明していこう。

 そもそも、この内乱説を生んだ背景に『日本書紀』(以下『書紀』)の記述に矛盾があるからだ。『書紀』には継体天皇の没年が例の「辛亥」年と記載されている一方、その次の安閑天皇の元年(『書紀』が治世の始まりとする年)を甲寅年、三年後の534年としている。

 つまり、継体と安閑天皇の治世の間に「空白の三年」が生じているのだ。その疑問に加えて、こんな矛盾もある。『書紀』によると、安閑の死後、その同母弟の宣化天皇の元年が536年、続いて、安閑の異母弟の欽明天皇の元年がそれぞれ540年となっている。

 ところが、平安時代に書かれた聖徳太子の伝記史料『上宮聖徳法王帝説』(以下『法王帝説』)によると、欽明天皇の治世は四一年の長きにわたり、その没年から逆算した即位年は辛亥年(531年)。『書紀』でいう継体天皇の没年に当たる。

 つまり、『法王帝説』に基づくと、継体の皇子三人(安閑、宣化、欽明)のうち、安閑と宣化の治世を飛ばし、いきなり欽明の治世が始まってしまうのだ。

 また、奈良時代にまとめられた『元興寺縁起』(元興寺は南都七大寺の一つ)でも、そのことは裏づけられる。仏教伝来に関係する話でもある。日本に仏教が伝来した年は『書紀』の「552年」説と『法王帝説』『元興寺縁起』の「538年説」の両説あるものの、現在では後者の「538年」説でほぼ固まっている。

『元興寺縁起』は「欽明第七年戊午年(538)」に仏教が伝来したと記載しているから、欽明天皇の即位年は逆算して531年の辛亥年に当たる。

 538年が「欽明七年」なので、厳密には即位年を532年とするべきだが、これは、越年称元法(即位の翌年を新天皇の治世の「元年」とするという考え方)によるものだから矛盾しない。

 さらに朝鮮の百済の史料『百済本ほ ん記ぎ』に、辛亥年に日本の朝廷内で内紛が生じていたと窺える記述がある。

 つまり、(1)『書紀』における継体没後の「三年間の空白」、(2)安閑、宣化を飛ばして欽明が即位したとする『法王帝説』『元興寺縁起』の記述と『書紀』との矛盾、(3)『百済本記』から窺える朝廷内の混乱――以上の矛盾点や謎を解決する方法として、戦前の歴史学者喜き田た貞さだ吉き ち氏(故人)が次のような解釈を示した。

 まず、継体天皇が辛亥の年に発生した事変(内容は不明)で没し、欽明天皇が即位したが、その即位に反対する勢力があり、「三年間の空白」を経て安閑天皇が即位。その後、「欽明朝」と「安閑・宣化朝」が並立した――。

 戦後、この両朝並立説を発展させ、当時、日本は内乱状態にあったとして「辛亥の変」という解釈を提唱したのが前出の林屋氏だった。

 林屋氏の主張はこうだ。まず背景に、当時のヤマト政権が朝鮮出兵に失敗したことが挙げられる。出兵で過重な負担を強いられた地方の首長や民衆の不満が充満し、筑紫(九州地方の古称)では磐井の反乱(527年)となって現れた。

 朝鮮出兵を巡る責任論は中央に及び、前述したように事変と両朝並立の状態を生み、不安定な政情が地方での反乱を惹起した――。

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