■1万以上の大軍を前に持ちこたえた理由は!?
ちなみに彼らが「天誅組」といわれるようになったのは、暗雲が漂い出してからだ。生き残った従軍兵の記録とみられる『大和戦争日記』によると、誰ということなく自分たちを「天誅(天に代わって罰を下すこと)組」と称するようになり、敵もそう呼ぶようになったという。
その後、四藩(紀州、津、彦根、大和郡山)を中心にした追討軍が大和を封鎖する形で包囲し、天誅組は十津川郷士らの離反でジリ貧となり、かつ、逃走ルートを探して迷走しつつ、九月二四日に鷲わし家か口ぐち(奈良県東吉野村)で寅太郎らの幹部が討ち死にし、ついに瓦解した。
挙兵から四〇余日。追討軍の兵力は一万人以上だった。それだけの間、なぜ天誅組は大軍を相手に持ちこたえられたのか。
まずは紀州藩では捕らえた者らを「正義の徒」と称えるなど、追討軍が彼らに同情していたこと。
そしてもう一つが天誅組を実像以上に評価しすぎたこと。天誅組の隊士が白襦袢を竿にひっかけて振り回し、追討軍を挑発しても攻め掛かってこなかったという話の他、その警戒心のためか、天誅組の一味と誤解して味方を誤射するなどの事件も相次いだという。
たとえば、会津藩士の松坂三内らが下渕村(奈良県大淀町)に本陣を置いた大和郡山藩で前線視察していたところ、誤って刺殺され、三内の息子による仇討ちに発展した例もあった。ともあれ、幕府が天誅組の追討に手間取ったことで威信の低下に拍車が掛かり、幕府そのものの瓦解を早めてしまったといえよう。
跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。