戦国時代に暗躍した連歌師の原点「漂泊の歌人」宗祇の謎多き生涯!の画像
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 連歌という詩歌のジャンルがある。ルーツは平安時代にさかのぼり、和歌の余興としてスタートしたため、和歌より一段下に見られていた。

 ところが、室町時代の応永二八年(1421)に生まれた宗祇が、連歌を和歌の余興から芸術の域にまで高めたといわれている。

 しかも面白いことに、戦国時代には連歌師が合戦などで敵対する武将らの間を巧みに行き来し、調整役のような役割を果たした。

 このように戦国時代に暗躍した連歌師という職業を確立させたのも宗祇といえよう。西行松尾芭蕉とともに「漂泊の歌人」といわれる宗祇の生涯を追った。

 彼も前半生が不明な歴史上の人物の一人。まず、これまで飯い の尾お 姓だったと伝わるものの、確証はなく、その姓は母方のものと考えられるようになった。

 出身地も近江、紀伊、摂津と諸説ある。そのうち、宗祇と同じ時代に生きた臨済宗の僧、景徐周麟が「江東」、すなわち琵琶湖東岸の生まれだと記しているため、今のところ、近江出身説が有力だ。

 また、宗祇が近江国内の国衆(武士)に宛てた書状の分析から、彼の父は近江守護の六角氏に仕えた武士だった可能性が浮上している。

 しかし、武士の息子である彼が、どういう経緯で連歌師になったのかは不明だ。宗祇の名と彼の作品が初めて公式に記録されるのは三七歳のとき。それまでの足跡でわずかに確認できるのは、彼が京の相国寺で修行し、三〇歳頃より連歌を作り始めたということだけ。初め、宗そ う砌ず いという連歌師について学んだようだが、この頃のことはよく分からない。

 前述した通り、宗祇が三七歳のときに連歌会の連衆の一人に名を連ね、ようやく彼が歴史の表舞台に立ったことが分かる。連衆というのは連歌会の参加者のこと。ここで、連歌のルールについて触れておこう。

 連歌というのは、五・七・五の発句に別の者が七・七の脇句をつけて、そのあと、また別の者が五・七・五と続けていく形式の文芸。

 最後の句(これを揚句という)まで百韻(一〇〇句)、もしくは百韻一〇巻(一〇〇〇句)と繋げていくのが一般的だ。

 宗祇が連衆の一人となった例の会は、一二名で一〇〇句を詠んでいるから百韻連歌と呼ばれる(ただし、現存しているのは七二句のみ)。

 その百韻連歌で発句を詠んだ専順が、宗祇の二番目の師匠となった。

 そうして寛正七年(1466)頃、四六歳になっていた宗祇はようやく一人前の連歌師として認められ、東国の武士たちに招かれて、それからほぼ八年の間、各地を歴遊した。

 これが彼の漂泊の歌人としての始まりとなるが、その東国で心敬という連歌師に師事できたことが飛躍の第一歩となった。

 心敬は当時の連歌師たちとは一味も二味も違う作風で知られ、宗祇の作風に広がりが生まれたといわれる。

 続いて東とうの常縁から古今伝授の指導を受けてその免許を授かったことが、大げさかもしれないが、その後の連歌の歴史を変えた。醍醐天皇の勅命によって紀き の貫つら之ゆ きらが延喜五年(905)頃に編纂した『古今和歌集』は歌人らのバイブルとされる一方、そこに収載される歌を正確に解釈するには一定の知識や技術が必要だった。そのための歌の講釈指導を古今伝授という。

 美濃国の国衆だった常縁がその古今伝授の奥儀を極めており、東国遊歴中の宗祇が彼に乞うて文明三年(1471)、一回目の講義を受けた。続いてその二年後の文明五年、彼が五三歳のとき、常縁から

「古今集の説ことごとくを僧宗祇に授けた」とする免許状を受け取ったのである。

 こうして和歌の極意を会得した宗祇が連歌を芸術として確立させ、彼の作品は正風連歌と呼ばれた。

 当時、応仁の大乱(1467~1477年)が勃発していた京へ戻った宗祇は種玉庵という庵を営み、やがて、奈良へ疎開していた関白一条兼良の連歌会に呼ばれるまでになる。

 文明八年(1476)には年頭恒例の幕府の連歌会に初めて参加。その連衆には前将軍足利義政や太閤二条持通、青蓮院尊応(天台座主)ら錚々たる顔触れが揃った。宗祇が一流の連歌師になった証しだ。

 そして、宗祇の名を中世の文化史に刻むことになったのが明応四年(1495)に完成した『新撰菟玖波集』。宗祇ら当代随一の作者の連歌を集めたもので、多くの選者の中で序文にその名が記されているのは宗祇だけ。彼は作品だけではなく、編集の中心にいたわけだ。この連歌集は勅撰に準じる扱いになった。

 このとき宗祇、七五歳。七年後、彼は漂泊の歌人らしく、旅の途中、箱根湯本で八二歳の生涯を閉じた。

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