鎖国批判の蘭学者を一斉に処罰!言論弾圧事件「蛮社の獄」真の標的の画像
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 事実上の鎖国が国是とされていた江戸時代に、蘭学者(洋学者)らの思想を弾圧した事件を「蛮社の獄」という。

 蛮社というのは蘭学者らの結社のこと。天保年間(一八三〇~四四年)に渡辺崋山(三河国田原藩士で画家、儒学者でもある)と高野長英 (奥州出身の医師)らが参加した尚歯会(蛮社)が弾圧のターゲットになったとされたことから、そう呼ばれる。

 尚歯には「老人を敬う」という意味があり、今でいう政策提言団体のような存在だった。当時は日本近海に外国船が出没していた時代。彼らは海防や交易という幕府にとって敏感な問題も議論していたから目をつけられたとしても不思議ではない。

 しかし、主宰者の紀州藩士遠藤勝助が「蛮社の獄」で処分されていないのは、どういうわけか。

 また、通説では「長英がある誤解をしたことが摘発を生んだ」とされる。この江戸時代の思想弾圧事件はなぜ起きたのか。事件の経過を「モリソン号事件」にまで遡って真相を探ってみよう。

 天保八年(1837)六月。難破した日本人漂流民七名を乗せたアメリカ商船モリソン号が、彼らを送り届けた見返りに日本との通商を求め、浦賀(神奈川県横須賀市)に来航。

 ところが、幕府は異国船打ち払い令に基づいて砲撃し、江戸湾から追い払った。次いでモリソン号は薩摩の山川(鹿児島県指宿市)に至ったものの、そこでも砲撃されてマカオへ帰り、結果、日本人漂流民は母国へ帰ることができなかった。

 その後、幕府では「漂流民送還と引き換えに通商を求めるならその要求を拒む」方針を新たにしたものの、「漂流民は次のオランダ船に乗せて帰還させる」考えだった。

 ところが、尚歯会にはこの後者の情報が伝わらず、さらにモリソン号が今後、漂流民を乗せて来航するものと誤解する情報がもたらされた。

 そこで長英は『戊ぼ 戌じゅつ夢物語』をしたため、「(モリソン号は)漂流民を憐れみ、わざわざ送り届けてくれようとしているのに取り合わず、ただ打ち払うだけなら、日本は民を憐れまない不仁の国と思われてしまう」と人道的見地から幕府の政策を批判したのだ。

 この長英の著書が話題になり、筆写されて広まったことに幕府は警戒を強め、当時の老中水野忠邦が目付の鳥居耀よ う蔵ぞ う(のちの町奉行)に作者探索を命じた。

 というのも『戊戌夢物語』は甲と乙という人物が語り合う形で話が進められ、作者が誰か分からなかったからだ。したがって、長英の誤解が事件の始まりといわれているのだ。

 一方、耀蔵らは「モリソン号事件」から、ほぼ二年が経った天保一〇年(1539)四月、作者は長英もしくは華山というところまで突き止めた。

 しかし、二回目の報告書で事態は意外な方向へ発展する。僧や町人らが無人島(現在の小笠原諸島)への渡海計画を企てたというのだ。

 当時、小笠原諸島の存在が欧米人の目にとまり、その占拠計画が進められ、父島での居住も確認できる。

 当然、日本人の関心も高まり、住職らはその島で「奇石異草」(珍しい石や植物)を見つけて本土へ持ち帰ろうと、幕府へ願いを出そうとしていた矢先だった。

 そして、この渡海計画に主導的な立場で関与したとして華山の名が浮上したのだ。この報告を受けて耀蔵から幕府へ提出された上申書によると、彼らは無人島で「異国人」と接触し、アメリカなどへの渡航を計画していたという。

 もちろん異国へ渡るのは国禁。事実なら処罰されてしかるべきだが、あくまで無人島の「奇石異草」などを調べるのが目的で、彼らは幕府へ渡海の許しを得ようと準備していたに過ぎない。

 一方、この頃には、そもそも探索の契機となった『戊戌夢物語』の作者が長英だと判明していたが、上申書での容疑はむしろ、この無人島渡海計画が中心になっていた。

 こうして同年五月一四日、奉行所の役人が江戸城半蔵門近くの田原藩邸の長屋から華山を連行。無人島渡海計画の僧と町人らも捕えられ、四日後には身を隠していた長英が自首し、逮捕者は計二六名に及んだ。

 この他、摘発対象になっていなかったが、尚歯会メンバーの蘭学者小関三英が自殺している。彼は華山にキリストの伝記(『耶や蘇そ伝』)を口訳したため、その連座を恐れたのだ。

 こうして蘭学者らは尚歯会メンバーが狙われていると思い込み、そのことが後に蛮社を摘発対象にした思想弾圧事件と誤解されるようになったのだろうが、そもそも、尚歯会には蘭学者以外の学者らも所属し、実際には蛮社と呼べない団体だった。

 結果、三英や主宰者(前出)らはなんの容疑もかけられておらず、以上の経過などから蛮社(尚歯会)そのものが摘発対象になっていたとはいえない。

 しかも、華山が無人島渡海計画に無関係だったことが後に判明する。それでは、この事件の本質はどこにあるのだろうか。

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