■「隆信筆」と確定できる作品はほとんどない!?

 一方、肖像画の技法が父隆信から彼へ伝えられているのはこれまでの研究で明らかになっており、隆信もスケッチという方法で写実的な「顔」を表現することに成功していたとみられる。

 それはまた、後白河法皇の近臣であるからこそできた成果であったはず。近臣ゆえに、建春門院の行啓に随伴する大臣以下をすぐ近くでスケッチする便宜を図ってもらえたのだ。

 もし彼が院の近臣でなかったなら、「その道のプロ」になれなかったかもしれない。残念ながら隆信筆と確定できる作品はほとんどないが、スケッチをはじめとする技術や作風は確実に子の信実に引き継がれ、父の死後、信実は後鳥羽院や後堀川院の宮廷サロンで「似絵の名手」として活躍するのである。

 順徳天皇の中殿御会(御所の中殿で行われる催し)の参列者を描いた「中殿御会図巻」(模写が現存)や「後鳥羽上皇像」(水無瀬神宮蔵=国宝)、「随身庭騎絵巻」(大倉集古館蔵=国宝)の一部などが信実筆とされる。

 特に『吾妻鏡』は承久三年(1221)七月八日付で〈今日、上皇御落飾(中略)これより先、信実朝臣を召して御影を模さる〉と記し、後鳥羽上皇が承久の乱で幕府軍に敗れ、落飾(出家)して隠岐に配流される直前の姿を信実に描かせたことが分かっている。

 父の隆信の時代と比べると、活躍の場面が一気に広がり、息子の信実こそが肖像画を絵画のジャンルとして確立させた功労者と言える。

 しかし、彼が父隆信の技術と作風を引き継いでいるという意味でいうと、確認できる作品はほとんどないとはいえ、先駆者の名はその父に冠してもいいのではなかろうか。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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