五代将軍徳川綱吉の生母・桂昌院「“玉の輿”の先駆け説」は本当か!?の画像
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 京都の今宮神社(京都市北区)は「玉の輿に乗りたい」「逆玉を狙いたい」という男女の聖地。

 神社の社務所では「玉の輿お守り」が用意され、門前の有名な「あぶり餅」を食べれば無病息災のご利益の他、玉の輿に乗れるという話が口コミで広がっている。

 なぜ今宮神社が玉の輿を狙う男女の聖地になったのかというと、ここが五代将軍徳川綱吉の生母、桂昌院(出家後の院号)ゆかりの神社だからだ。彼女の俗名を「お玉」といい、「玉の輿」の玉は、その名に由来するという説もある。

 それでは、どうして綱吉の実母が玉の輿に乗った女性の代表になったのか。その桂昌院の生涯を振り返っていこう。

 生年は死亡年からの逆算で寛永四年(1627)とされる。出自も諸説入り乱れている。通説は父を関白二条光平家司、北小路(のちに本庄へ改姓)宗正とする。家司というのは公卿家などの家政を司る職員。いわば公卿家の執事といったところか。この他、八百屋の娘(いわゆる町娘)という説も根強い。

 関白の執事の娘と町娘では身分に大きな開きがあるものの、その折衷案が、商家の嫁が北小路宗正と再婚し、連れ子の一人がお玉だったという説。お玉の母が再婚した理由も、夫の放蕩に嫌気が差して家を飛び出したという説、夫に先立たれた未亡人説などがある。

 事実、徳川将軍の正室や側室らの系図や伝記をまとめた『柳営婦女伝系』(以下『婦女伝』)には連れ子説が掲載されている。お玉の前半生については確実な史料はないものの、その後の事実関係との整合性などから同史料はおおむね信じられる。

 その『婦女伝』によると、お玉の生家の住所は「京都堀川通西藪屋町」。そこの「八百屋仁左衛門」の娘だという。夫の死後、未亡人となった母が娘二人を育てるため、北小路家の賄い方に職を求め、奉公に出ているうちに主の宗正のお手が付いて後妻に入ったとされる。連れ子の娘のうち、一人がお玉。母はその後、宗正との間に男子をもうけ、お玉の義弟に当たる男子は後に常陸国笠間藩主の本庄宗資となる。『婦女伝』は「(お玉が)六条宰相有綱( 有純)卿の息女お梅の方の縁故で江戸へ出て(江戸城の大奥に入り)、大猷公(三代将軍徳川家光)の時代に春日局(家光の乳母)の指南を受けて、秋野という候名(下臈女房の奉公名)を称し、(将軍の)側に仕えた」とある。

 その後、お玉は正保三年(1646)正月に家光の子の徳松という男児を出産。家光の死後、髪を下ろして桂昌院と号し、延宝八年(1680)五月に四代将軍家綱が亡くなると徳松が五代将軍綱吉となり、「本庄家(旧北小路家)の一族は言うに及ばず、御縁類御遠族(つまり遠い親戚まで)ことごとく取り立てられた。また、(彼女は)神仏を信仰する心篤く、諸寺諸社の多くを再建し、元禄一五年(1702)二月に従一位に昇進した」という。『婦女伝』に基づく彼女の生涯はざっとこんなところだが、一つずつ肉づけしていこう。

 まず彼女が江戸城大奥に入り、春日局の指南を仰ぐきっかけを作った「お梅の方」とは何者なのだろうか。一般には「お万の方」で知られる。伊勢神宮に所属する慶光院という尼寺の院主だったとされるが確証はない。

 ただ通説は、院主就任の挨拶のために江戸城へ上った彼女の尼姿を見て家光がひと目で気に入り、還俗させて側室にしたとされる。彼女が家光の愛妾だったのは確かだ。

 そのお万の実家(六条家)とお玉の義父が家司を務める二条家は関係が深く、その縁でお万の部屋子として、お玉が江戸城大奥に呼ばれたのだろう。そして、お玉が春日局の目に留まり、行儀作法を含めた指南を受けるようになったという流れだ。

 ちなみに家光には正室の鷹司孝子の他、お振の方、お楽の方、お万の方(前出)、お夏の方などの側室がいて、お振は早くに亡くなり、代わって側室となったお楽はのちの四代将軍家綱を産んだものの、彼女もその後、亡くなった。お万の方には子がなく、お夏は徳松から見ると二歳上の兄に当たる徳川綱重(甲斐国甲府二五万石の藩主)を産んでいた。

 一方、お玉の子である徳松は元服して綱吉と名乗り、父家光から上野国館林二五万石を与えられていた。

 家光の死後、四代将軍に任じられた家綱になかなか男子が生まれず、その状況下でお夏とお玉それぞれの生んだ男児が次の将軍候補とされたため、二人の確執がドラマなどで取り上げられるのは至極当然の話。実際に確執はあったのだろう。

 当時、桂昌院(お玉)と順性院(お夏)と号していた二人のうち、この将軍位を巡る争いで優位に立ったのは桂昌院。順性院の産んだ綱重が延宝六年(1678)、三三歳の若さで他界したからだ。その二年後、将軍家綱も世子をもうけず危篤に陥り、次の有力な将軍候補は綱吉と綱重嫡男の綱豊(のちの六代将軍家宣)となった。

 結果、春日局の養子で若年寄(当時)の堀田正俊の意見が容れられ、家綱によって綱吉が次の将軍に指名されたのである。

 こうして八百屋の娘が将軍生母となって従一位という異例の昇進を遂げ、一族をことごとく繫栄させたのだから、これ以上の「玉の輿」はない。しかし、「玉の輿」の「玉」を桂昌院とするのは俗説。

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