大坂城の攻め口に仕掛けられた官兵衛の巧妙なワナ

官兵衛は攻城の際、無益な力攻めはしなかったという。まずは説得工作から始め、その後、水攻め、兵糧攻めなど味方の被害を最小限に留める方策を練った。力攻めをする場合も、城の三方は取り囲むが、残る一方は敵の逃げ口として開けておいた。

城全体を囲うと、逃げ場を失った敵は死に物狂いで戦いを挑んでくる。すると必然的に味方の犠牲も多くなってしまうからだ。このような攻め方により、味方の犠牲を最小限に抑えていた。

大坂城の場合はどうか?

北には淀川、東西は掘割と運河によって防御は固く、防御が手薄といわれる南も、空堀とその内側には城下町が広がる。さらに攻めあがると外堀(水堀)、外堀を越えると内堀(空堀)がある。こちらも計3ヶ所の堀を越えなければならないが、そのうち2ヶ所が水のない空堀だ。この場合、攻城側は防御の弱い南から攻めるのが鉄則となる。

南から攻められると、城兵は城の北側に追い詰められ、城の防御のための淀川が城兵を苦しめると思われる。だが、城を守る城兵にとっては淀川の流れは、城からの脱出ルートになるのだ。官兵衛は北に脱出ルートを確保するため、あえて南に敵の攻め口を開けたのかもしれない。

また空堀は、石垣の降り昇りがあるが、歩いて渡れるため、水堀より攻めやすそうに思える。だが、固そうに見えた堀の底が水田のような泥濘だったら? 堀に侵入した攻城側は泥濘に足を取られ一網打尽となってしまう。天守が目前の内堀南の空堀は、官兵衛のワナだったともいえるのだ。

また、天下取りの夢を抱いていた官兵衛だけに、敢えて大坂城に「攻め口」を残したとも考えられる。空堀のワナも自分が仕掛けたため怖くはない。

だが、家康が関ヶ原合戦を一日で勝利し、天下取りの夢は潰えてしまった。「夏の陣」の後、大坂城は家康により破却され地下に埋められた。現存する縄張りは徳川時代のものだが、堀の位置は西側の内堀以外、そう大きく変わっていない。


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