「健さんが亡くなったことは、今朝の報道で初めて知りました」
こう語るのは、東映の元社長・高岩淡(たん)氏だ。
「現社長の岡田裕介さんも"今朝知った"と言っていましたから、誰にも知らせてなかったんじゃないですかね。"迷惑をかけてはいけない"という健さん流"男の美学"を、最期まで貫いたんでしょう」(高岩氏)
11月18日、日本映画界屈指の名優・高倉健(本名・小田剛一)さんの死(享年83)が明らかになった。
次回作を準備中、体調を崩して入院。治療を続けるも、10日午前3時49分、悪性リンパ腫のため、東京都内の病院で帰らぬ人となった。故人の遺志により、親族だけの葬儀が行われたという。
〈往く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし〉
所属事務所から報道各社へ送られたファックスの文言どおり、悔いの残らぬ安らかな死に顔だった。

「健さんは1931年、福岡県生まれ。明治大学を卒業後、東映のニューフェイスにスカウトされ、56年にデビュー。初主演作は『電光空手打ち』でした。60年代には、『網走番外地』や『昭和残侠伝』などのシリーズに主演。東映の任侠路線のスターとして爆発的な人気を博しました」(ベテラン芸能記者)
任侠ものが下火になると、幅広い作品に出演。77年には、名作『幸福の黄色いハンカチ』に主演。
「"不器用"な生き方しかできない刑務所帰りの男を演じ、第1回日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞に輝きました」(前同)
健さんは同賞を4度受賞したが、最後は99年公開の『鉄道員(ぽっぽや)』だった。
「健さんとの仕事で一番思い出に残っているのは、『鉄道員』です」
帯に健さんが推薦文を寄せた『銀幕おもいで話』(双葉社)の著書もある前出の高岩氏が、"秘話"を語ってくれた。
「実は、あの映画は、定年直前だった照明技師が"最後に、もう1回だけ健さんと仕事がしたい"と、私に持ってきた企画なんです。健さんは、その思いを汲んで出演してくれたんです」

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