本誌連載中から好評を博した『1964年のジャイアント馬場』が、11月20日に単行本として発売された。
このたび、発売を記念して、藤波辰爾さんにインタビューを敢行。アントニオ猪木のイメージが強い藤波さんだが、ジャイアント馬場は最初に入門した日本プロレスの大先輩。16歳の藤波少年にとって"憧れのトップレスラー"だったのだ。ドラゴン・藤波辰爾が初めて語る「ジャイアント馬場」とは――。


「今でも忘れられないシーンがあります。日本プロレス時代の地方巡業中、葉巻をくわえた馬場さんが、列車から駅のホームに降りたったんです。黒山の人だかりとなったファンを前に馬場さんは立ちどまり、プワ~と煙を吐き出す。その姿がカッコよくてねえ……。やっぱり馬場さんは、スターとして自分をどうファンに見せたらいいのかという"自分作り"が、すごくうまかった。あの時代、プロレス=ジャイアント馬場。力道山先生が亡くなられた後、あの大きな体を含めて、馬場さんはプロレスというスポーツをすべて象徴していましたし、ご自身にもその自覚があったと思います。本場アメリカ仕込みのファイトスタイルがまたカッコよくてね。32文砲(ドロップキック)を初めて見たときなんて、目が釘づけでした。たとえて言うと、初めて羽田空港を離陸したジャンボジェット機を見た時のような……そんな、規格外の衝撃がありましたよ」

藤波さんが日本プロレスに入門を果たしたのは、70年。故郷・大分の別府温泉に日本プロレスのレスラー・北沢幹之が療養に来ていると聞き、直談判。だが、憧れて飛び込んだプロレス界はまさに"怪物が棲む世界"だった。

「北沢さんに連れられて、巡業先の山口県下関の体育館へ向かいました。テレビで見ていたはずが、いざプロレスラーを前にすると、体の厚みと漂うオーラに圧倒されました。試合後、旅館で初めて馬場さんに挨拶させていただきましたが、もう直立不動で足がガクガク震えてね(笑)。畏れ多くて、何も言えなくなったことを覚えています。入門後、猪木さんの付け人をやっておられた北沢さんから引き継ぎ、僕がやらせていただくことになった。一方、馬場さんの付け人は僕より半年ほど先に入門していた佐藤昭雄さんでした。入門がほぼ同じで、心を許せる唯一の先輩でしたから、佐藤さんとは二人でいろいろやったなあ(笑)。当時、馬場さんと猪木さんは、だいたい同じ控室でした。試合が始まると、馬場さんも猪木さんも控室からいなくなる瞬間があるんです。そんなとき、馬場さんと猪木さんが入場の際に着るガウンに、二人でこっそり袖を通したりしてね。そうそう、馬場さんのインター(NWAインターナショナルヘビー級王座)と、猪木さんのUN(ヘビー級王座)のベルトを、それぞれ交換して巻いたこともありました(笑)。あの頃、今と違ってベルトは本当に特別はばかで触ることすら憚られるものでしたから、腰に巻けただけで有頂天でしたね」

アントニオ猪木の付け人だった藤波さんが、馬場と親しく会話をするような機会はほとんどなかった。それだけに、いくつかのシーンが今も鮮明に残っている。

「一度だけ、旅館の風呂場で馬場さんの背中を流させてもらったことがあるんです。当時、馬場さんと猪木さんはBI砲として組むことが多く、同じ頃に旅館に到着する。それで一緒に風呂に入って、僕が猪木さん、佐藤さんが馬場さんの背中を流すんです。あるとき、馬場さんの背中を流していた佐藤さんが茶目っ気を出してね。代わろうと言うから代わったら、もう背中が麻雀卓(笑)。とにかくデカくて、背伸びして背中を流したことはよく覚えています。途中で入れ替わったことを馬場さんはわかっていたのかなあ……。トップスターだった馬場さんと若手が一緒に練習をすることはなかったんですけど、ある夕方、代官山の日本プロレスの合宿所に、たまたま馬場さんが顔を出した。そのまま練習場のリングに上がると、僕に向かって"おい、ちょっと上がれ"。緊張と喜びで固まりましたね。それでヘッドロックをかけられたんですが、文字どおり一歩も動けない。あの"痛いうれしさ"は今でも忘れられませんよ(笑)」

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