■権力者である頼綱は「興ざめする」容姿!?

 実際、寄合のメンバーはわずか五人で、うち、主要な安達泰盛と平頼綱は、前者が時宗の妻の兄という立場だった有力御家人である一方、後者は得宗家の家政機関である公文所の執事(長官)。内管領、御内人とも呼ばれ、次の当主となる貞時の乳母の夫という立場に過ぎなかった。

 その頼綱は祖父の盛綱が得宗家初代である義時に仕えた得宗家累代の家臣。先祖は平清盛の孫である資盛と称しているようだが、事実とは考えづらい。のちに頼綱の一族は長崎氏と称し、これが北条氏発祥の地と同じ伊豆国田方郡の地名であることから、もともとは北条一族で、早い時点で得宗家の家臣になったものとみられる。

 そして、得宗家の家臣に過ぎない頼綱は時宗の死後、同じく寄合メンバーの一人だった安達泰盛を誅殺して権力を掌握。これを「霜月騒動」という。『保暦間記』によると、弘安八年(1285)の一一月(霜月)一七日に起きたためだ。この事件は安達泰盛の子の宗景が、源頼朝の子孫であると称して源氏に改姓したことに対し、頼綱が謀反の意図があると讒言したことに起因する。

 こうして泰盛とその一族を葬り去った頼綱は、公卿の日記に「諸人恐懼」と書かれるほどの恐怖政治を行い、実は将軍である惟康親王の追放劇で現場を仕切ったのも彼だった。

 いったい、得宗家の家臣がなぜ、ここまで力を持つことができたのか。その要因が“執事奉書”。重要な案件は必ず、得宗家当主の判(花押)が必要だったが、それがなくなったことで、執事、すなわち頼綱のものだけで処理することができるようになったため。いわば、社長のお気に入りが、その稟議書なしで自由に会社を動かすようなものだろうか。

 冒頭で触れた『とはずがたり』の筆者は、惟康親王に代わって別の親王が将軍として鎌倉に東下することになった頃、平頼綱の邸に呼ばれた。そこで、筆者は新将軍の御所が「常のしつらい」、すなわち、極めてありふれた造りだったのと対比し、頼綱の邸が金銀や金玉を散りばめ、想像上の鳥である鸞鳥の鏡を磨いたような眩さだったと記している。

 ただ、一方で、筆者が会った際の頼綱の容姿は興味深い。彼女が「頼綱が袖短い直垂姿で向こうから走って来て奥方に寄り添った姿を見て興ざめする気がした」と書いたように、英雄的な容姿の男ではなかったようだ。

 その頼綱も永仁元年(1293)四月、成人した貞時の差し向けた討手により、一族九〇余人もろとも滅ぼされた(平禅門の乱)。

 その後、一族の長崎光綱が得宗家の執事として復活し、再び長崎氏の専横が激しくなり、それが鎌倉幕府滅亡の一因ともされている。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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