■織田 信長に仕える以前から西近江に足跡が残る!?

 一方、近年、注目を集めつつある「近江説」に触れておきたい。この説は江戸時代の貞享年間(1684〜88)に彦根藩主・井伊家に献上された『淡海温故録』に依拠している。現在の滋賀県多賀町佐目にやはり中世の城があり、『淡海温故録』によると、光秀の父とされる人物・明智十左衞門が住んでいたという。

 また、光秀の家臣の子孫とされる佐目の住民の一人は、「見けん津つ」という姓で、これはもともと光秀から名の一文字をたまわって「みつ」と呼んでいたものの、彼が謀叛人であるために隠して「けんつ」と読むようになったという。

 さらに、光秀が本能寺の変のあと、信長の居城だった安土城に入城した翌日に多賀大社などに発給した禁制も、彼が佐目出身である根拠とされる。

 とはいえ、『淡海温故録』はあくまで江戸時代という後世の史料。没落した一族が氏名の読み方を変えて逼塞したという伝承は明智一族に限った話ではなく、各地に類話が残っている点は気掛かりだ。

 一方、多賀大社は伊勢神宮内宮の御祭神である天照大神の父母神、伊弉諾・伊邪那美の二柱(二神)を祀り、中世から近世にかけて庶民の崇敬を集めた。近江国を代表する神社であるため、近江という足元を固めようとする光秀が多賀大社を保護するために禁制を発給したこともある意味、当たり前の話といえる。

 ただし、光秀が信長から西近江の坂本城を与えられ、最近では彼に仕える以前から足跡を残していたことが判明し、この説には一蹴できない一面もある。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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