徳川家康の外交顧問は“青い目の侍”! W・アダムス「三浦按針の生涯」の画像
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 幕末以前の日本史に登場する有名な西洋人といえば、キリスト教をもたらしたスペイン人のフランシスコ・ザビエルに加え、長崎・出島のオランダ商館医となったドイツ人医師のシーボルトが思い浮かぶ。だが、イギリス人で初めて日本を訪れたウイリアム・アダムスの存在がなければ、シーボルトでさえも歴史にここまでその名を残すことはなかったかもしれない。

 アダムスはロンドン郊外のジリンガム生まれ。一二歳で故郷を離れ、テムズ河畔のライムハウスで船大工に弟子入りすると、次第にその操縦に興味を抱き、船乗りとなった。

 一五九八年六月には妻子を残し、当時、インド貿易を始めていたオランダの船に乗り込み、ロッテルダムを出港。船団の目的は太平洋上に新しい島々を見つけ、かつ日本と交易することだったが、出港時に五隻だった船は南米大陸南端のマゼラン海峡を越える頃には、暴風に見舞われた影響からアダムスが航海長を務めるリーフデ号だけになった。

 結果、乗組員二四人が生き残ったが、一六〇〇年四月に日本の豊後臼杵沖に漂着したとき、アダムスと六名しか満足に立つことができず、彼の手紙によると、「我々がこの地にいる間、皇帝が我々のことを伝え聞き、直ちに五隻の櫓帆船を送り、私を宮廷へ連れて行きました」という。

 このとき、豊臣政権の長崎奉行だった肥前唐津城主の寺沢広高は大坂に報告してリーフデ号を廻航。こうして航海長のアダムスが病床の船長に代わり、大坂城で“皇帝”に謁見することになった。

 当時、大坂城の主は豊臣秀頼だったが、ここでいう皇帝は豊臣政権五大老筆頭の家康を指す。その相手が仮にアダムスでなければ、その後の歴史は変わっていたかもしれない。

 すでに日本をポルトガル人とスペイン人が訪れており、いずれもカトリックの国である彼ら旧教徒は、新教徒(プロテスタント)のイギリス人とオランダ人を警戒。アダムスによれば、ポルトガル人らが家康に、「(彼らは)どこの国民をも襲う強盗か泥棒だ」と告げ口していたという。

 しかも、リーフデ号には航海中、戦争状態にあるポルトガルやスペイン側に拿捕されないよう、大砲や武器(五〇〇挺の火縄銃など)と弾薬が積まれていた。

 アダムスは実際、いつ磔つけにされるかと不安な日々を過ごしたが、家康に謁見した際に二国との戦争について質され、ポルトガル語の通訳を通じて理解をしてもらえるように語り終えると、家康が「私の話を聞いて喜んだようでした」という。つまり、家康はポルトガル人らの告げ口を信用せずにアダムスの話を信じ、彼をいたく気に入ったのだ。事実、旧教徒側の史料もアダムスを「頑固な異教徒」で「聖書に対する理解と解釈は誤っている」と批判する反面、「頭脳明晰」と分析。

 結局、リーフデ号は江戸に廻航する途中で使い物にならなくなり、乗組員は年金を支給されて日本にとどまり、その後、多くが来航する貿易船などに乗って去る中、家康はアダムスだけは手放さなかった。

 そして、アダムスは家康に頻繁に呼ばれるようになり、数学や幾何学を講義するだけでなく、船大工の経験があることから西洋式の船の建造を命じられて完成させた。

 アダムスはこうして家康の信頼を得て、三浦郡逸見(横須賀市)に領地を与えられ、手紙に「イギリスの貴族制のように住居と八十ないし九十名の農民を与えられた」と書いた通り、外交顧問に相応しい旗本の待遇を得た。

 また、彼はこの頃、日本人妻を娶り、やがて二児を設け、通説では伝馬役人の馬込勘解由の娘・お雪とされるが、その名も素性も明治の文献に突如として記載され、典拠は不明のまま。

 だが、アダムスが江戸の日本橋にも屋敷をもらい、領地のある三浦郡と水先案内という意味を合わせ、三浦按針という日本名を名乗るようになったことは事実だ。

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