■光秀は信長よりも先に天守閣がある城を持つ

 光秀はそこで、焼き打ちの一〇日前にしたためた手紙で、「仰木の事は是非ともなでぎり(撫で切り)に仕るべく候。やがて本意たるべく候」という決意を和田秀純に述べた。

 彼は焼き討ちの準備段階から信長の命令を忠実に実行すべく、村を撫で切りにする意思を見せ、本番でも当然、中心的な役割を担った。それは焼き討ち後、山城国愛宕郡と近江国志賀郡の比叡山領が恩賞として光秀に与えられたことからも明らか。つまり、光秀がわずか三年で城持ち大名になった理由の一つが、汚れ役を見事に果たしたからと言える。

 さらにもう一つ、光秀が信長に仕える前、西近江の田中城(高島市)に籠城していた史実が最近の研究で明らかになり、彼がもともと、地の利があったことも大きい。

 光秀はすぐに坂本城の築城を始め、翌元亀三年(1572)の一二月にほぼ完成。どんな城だったのか。吉田兼見が城中をほぼ回ったと『兼見卿記』の存在に書かれ、「天主(天守)」に驚いたという。信長は後に安土に地下一階、地上六階建ての壮麗な天守閣を築いたが、光秀はそれよりも前に天守閣のある城を持っていたのだ。

 坂本城は本丸を取り囲むようにコの字を逆にした形で、内堀、中堀、外堀の三重の堀を巡らせて二の丸と三の丸を設け、三重の堀はすべて琵琶湖に直結。ここで開かれた茶会に出席した津田宗及はその終了後、「御座船を城の内より乗り」(『天王寺屋会記』)と記し、城の中の船溜まりから御座船のような大きな船も琵琶湖に出入りしていたことが分かる。

 光秀の配下の者がその信長の自家用船を運航、つまり信長のために湖東(安土城方面)と湖西の坂本城間の送り迎えを担っていたのではないだろうか。

 ここまでは信長との蜜月関係を窺わせていたのである。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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