■高時は病気がちだけに暗君の評判は気の毒!?
軍記物の『太平記』は高時が田楽と闘犬に夢中になり、泥酔した彼が踊りを舞い、かつ、自身に追従する御家人らの中にも田楽法師や犬に巨万の富を投じた者がいたという話を掲載している。
要は高時が田楽と闘犬に興じるばかりで、政務をおろそかにしたことが幕府滅亡に繋がったといいたいのまた、『保暦間記』には「すこぶる亡気の体」とある。正気を失った愚か者というような意味だろうか。
この両書が後世の高時評に繋がった反面、いずれも幕府滅亡後に書かれたことから、ことさら彼の暗愚が強調された印象で、当時の評判ははたして、どうだったのか。
連署として支えた前述の金沢貞顕も「田楽のほか、他事なく候」と評しているが、高時をかばうなら、父である貞時は晩年、政治に意欲を失い、すでに長崎円喜が実質的に幕府を支配する体制ができつつあったことも確か。
高時は九歳で得宗を継いだあと、その既定路線に乗るしかなく、「田楽のほか、他事なく候」は裏を返せば、政治は円喜らが担うため、それしかやることがなかったと言うこともできる。
また、貞顕の書状からは高時が病弱だったことも分かる。彼が二四歳の若さで執権から退いて隠居した理由は大病を患ったためで、前述の「亡気」という表記も病気がちで、どこか虚ろなところがあったからかもしれない。
だとすれば、後世の高時評は気の毒と言えなくもない。
跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。