将軍に年貢減免を直訴して処刑!?“農民の神”佐倉惣五郎「義民伝説」の画像
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 江戸時代の天明年間(1781~1789年)といえば、浅間山が噴火し、大飢饉が東北を中心に日本列島を襲った時代。当時はヨーロッパでも天候不順による食糧不足が深刻化したことから、パンが値上がりして庶民の不満が募り、やがてフランス革命に発展したように、世界中が新型コロナウイルスに喘ぐ現在と、どこか似た状況にありはしないだろうか。

 その天明年間には江戸で民衆運動の打ちこわしが相次ぐ一方、地方では惣百姓一揆と呼ばれる全藩規模の暴動が頻発する中、「一揆を成功させる神」として崇められた男がいたという(『佛教大学大学院紀要42号』/義民伝承と明治期におけるその変遷について/大久保京子)。それが「義民」佐倉惣五郎(宗吾)。義民は民衆のために一身を捧げた人を指し、一揆などの指導者の多くがこの時代、極刑に処せられて墓石を建てることも禁じられたが、百姓らは彼らを追慕して稲荷や地蔵などに仮託し、その徳を仰いで伝承を残した。

 その最も有名な下総国佐倉の義民である惣五郎は、治世者に直に訴え出る越訴という強硬な手段で、百姓らを悪政から解き放った救世主で、伝承によると、輝かしい事績を残したとされる――。

 慶安四年(1651)、三代将軍の徳川家光に殉死した佐倉藩主の堀田正盛に代わり、嫡男である正信が家督を相続した。

 彼には諸大名や旗本から賄賂や口銭などの贈り物が多く、役人らも自然と藩主に右へ倣えとばかり、領内の百姓に年貢や加役を増徴。名主らが堀田家に嘆願したものの、聞き入れられなかったことで、その一人だった公津村(成田市)の惣五郎が、老中の一人に対する駕籠訴を決意した。

 だが、承応三年(1654)、江戸城西の丸下の屋敷から駕籠が出てきたところを狙って願書を捧げ、一度は受理されたものの、下げ戻されてしまった。

 幕府は穏便に済ませるため、惣五郎を罪科に問わないと申し渡したものの、それでは当然のことながら、埒が明かない。惣五郎はそこでついに、「こうなっては将軍への直訴以外に方法はなく、命を捨てる覚悟である」と他の名主に伝えると、実際に直訴状をしたため、その手渡しを単身、決行。幕閣は評議した結果、願書を正信に下げ渡すことになり、惣五郎の必死の直訴が功を奏した。

 一方、江戸在府中だった正信は、国元の地じ方がた役人らの勤め方の悪さが直訴を招いたとし、彼らに即刻、「吟味してその上で自分が切腹するか、百姓たちの願いを聞き入れて年貢を父正盛時代の通りに申し付けるかを考えたい」と申し伝えるように命令した。

 すると、出府した役人らはいずれも自らの非を隠し、直訴の頭取である惣五郎を悪党として極刑にすべきと主張。正信はこの主張を受け容れ、惣五郎夫婦と子どもを、それぞれ磔刑と死罪とする処分を下す一方、百姓らは許す意向を示し、村々の願いである正盛時代の年貢に準じ、新たに課した雑税の納め方も同様にするとした。

 こうして惣五郎の自己犠牲により、年貢軽減という村々の願いがかなった――以上のストーリーは惣五郎の死から一世紀近くが経った頃に成立したとされる『地蔵堂通夜物語』や『堀田騒動記』『佐倉義民伝』などに基づき、歌舞伎の演目(『東山桜荘子』)になり、地元の成田市に宗吾霊堂(東勝寺)まで建立された。しかし、その反面、その実在性が疑われてきた。

 ところが、昭和になってから、宗吾霊堂の史料の中から、前述の公津村の土地名寄帳が発見され、惣五郎が約三町六反の田畠を持っていたことが判明した。「一反=三〇〇坪、一〇反=一町」として計算すると、およそ一万坪の農地となり、かなりの豪農と言える。

 また、史料には彼の他に三〇人の百姓の名が記載され、約三町六反よりも持ち高の多い百姓は一人だけで、屋敷の面積は全員中、最も大きく、公津村に惣五郎という名主クラスの豪農がいたことは確か。

 続いて、その名寄帳に記載された役人の名から、正信が佐倉藩主だった時代の史料であることも分かり、惣五郎は実在したことになる。

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