■北条嫡流家はもちろん幕府まで乗っ取った!?

 朝時の異母兄である泰時(義時の長男)も『吾妻鏡』にすべて「江間」の氏名で登場するというから、泰時は江間氏の嫡流であり、朝時が時政の養子になって北条嫡流を継ぐという構想だったのかもしれない。

 しかし、元久二年(一二〇五)閏七月、父・時政が失脚し、朝時に北条嫡流家の家督を継がせようとした者がいなくなって、「江間義時」が「北条義時」になった。

 その義時は「得宗」とも呼ばれる。南北朝時代の史料に「義時が得宗と号す」とあるからだ。

 彼の法名を徳宗といい、主に得宗(徳宗)は、義時の法名だと解釈されている。それを裏付ける証拠はないものの、北条氏の嫡流を「得宗家」といい、「義時-泰時-時氏-経時-時頼-時宗-貞時-高時」と続いた。これに時政を加えて、「北条九代」と呼ぶ場合もある。

 ところで、五代執権となった北条時頼は赤痢にかかって家督をわずか六歳の時宗に譲ったが、六歳の時宗に変わって叔父が一時的に執権に就いた。

 だが、予想に反して時頼は奇跡的に回復し、そののち、再び政治を担い、時頼はこのとき、執権としてではなく、北条嫡流の当主、つまり、得宗としていわゆる院政を敷いた。

 その得宗家に公文所と呼ばれる家政機関があり、もともと御家人として北条氏の同僚だった家柄の者が北条氏の勢力拡大とともに得宗の被官になる者も現われた。

 こうして得宗の家政機関は、鎌倉幕府の中で、“もう一つの幕府”といえる存在になり、少数の寄合で幕府を事実上動かすようになる。これを「得宗専制政治」と呼んだ。

 義時が北条氏の庶流である江間氏の当主に過ぎなかったのだとしたら、その彼が初代執権、かつ得宗家初代となり、北条嫡流家はおろか、幕府まで乗っ取ったといえよう。

●跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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