本能寺の変「黒幕と密会」疑惑も!“光秀の盟友”細川藤孝の処世術の画像
『麒麟がくる』主演の長谷川博己

 放送が一時、休止したNHK大河ドラマ麒麟がくる』が二月七日に、いよいよ最終回を迎える。本作の主人公は、言わずと知れた明智光秀。その生涯の盟友で知られる細川藤孝を現在、ブレイク中の俳優である眞島秀和が演じ、彼は物語のクライマックスである本能寺の変で、誠実なイメージを覆す別の顔を見せた。

 藤孝は室町幕府細川管領家の分家の分家に当たる三淵家の生まれである。やがて、将軍の御供衆である細川元常(和泉細川家の当主)の養子となって一三代将軍の足利義輝に仕え、近年は幕府内談衆を父に持つ細川晴広が養父とされるようになった。

 いずれにせよ、養父の存在によって将軍に近侍する資格を得たことになり、義輝が三好三人衆らに暗殺されると、その実弟である奈良一乗院門跡の覚慶(のちの義昭)の将軍職就任に奔走。

 義昭がその甲斐もあって、織田信長に奉じられて上洛を果たし、一五代将軍となると、その翌年の永禄一二年(1569)四月一九日付とみられる幕府奉公衆の連署状に藤孝、光秀、三淵藤英(藤孝の兄)、上野秀政の署名が、この順に記載されている。必ずしも順番通りの席次とはならないものの、一般的に解釈すれば兄や友よりも高い席次にあったことが分かる。

 藤孝はその後、信長に仕えて細川姓を捨て、山城国の長岡郷(長岡京市付近)に領地を持っていたことから関ヶ原合戦の頃まで長岡藤孝を名乗り、本能寺の変の直前に不可解な行動を取った。

 まず、光秀と親交が深かった吉田兼見の日記『兼見卿記』(別本)の天正一〇年五月一四日条には、「長浜(長岡兵部大輔のことで藤孝をさす)が早天、安土へ下向」という記述がある。

 五月一四日は光秀が信長から徳川家康の接待饗応役を仰せつかった当日で、彼は一七日に当然、この職務を解かれ、二七日に愛宕山に参籠して籤を引いた結果、謀叛を決意したとされている。

 つまり、光秀が接待饗応役を仰せつかった五月一四日は、本能寺の変の動機を考えるうえでは非常に重要な起点として注目される一方、藤孝は前述のようにこの日早朝、安土に下向。『兼見卿記』には光秀についても、「惟任日向守(光秀)在庄」という表現があり、家康が翌日、到着することなどを考えれば、彼はすでに安土にいたと思われ、早朝にやってきた藤孝と自身の邸などで密談した可能性もある。

 また、藤孝は兼見と従兄弟同士であるばかりか、五月一二日から京の兼見邸に逗留したことも確認され、ここで二泊し、一四日朝にわざわざ安土に向かったことになる。

 一方、兼見は光秀が敗死したあと、その関係を印象づける日記の記述をすべて書き換え、前述の「別本」は奇跡的に残されたそれ以前のもので、彼はかねてより、本能寺の変の黒幕の一人とされてきた。

 だとすれば、藤孝は京の兼見邸で兼見と二日にわたり、じっくりと話し合い、その内容を光秀に伝えるために、わざわざ安土を訪れたのか。

 当然のことながら、藤孝と兼見の会談内容を史料で裏づけることはできないものの、やはり、この場で光秀の動機に繋がる何かが話し合われたとしても不思議ではない。

 光秀はこうして、六月二日早朝に本能寺で信長を討ち、その後、京から居城である坂本城(大津市)に引き揚げた。その際、兼見は京の粟田口まで光秀を追い掛け、彼が接収した安土城(信長の居城)をその後、朝廷の使者として訪れ、銀五〇枚を贈られたという。

 もはや謀叛に関与していたと取られかねない行動をした怪しい人物と言え、藤孝がその彼と二日間、何事かをじっくりと話し合い、まもなく安土の光秀を訪ねたその行動もまた、不可解と言うしかない。『細川家記』によると、本能寺の変の前、丹後宮津城の城主だった藤孝は、重臣である米田求政を信長の出迎えの使者として京に遣わしたあと、その彼が本能寺の変を知り、健脚自慢の早田道鬼斎を城に走らせたという。

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