戦国史の謎を解く新史料が発見!明智光秀の三日天下は「船合戦が原因」の画像
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 主人公の明智光秀は天正一〇年(1582)六月二日に本能寺で織田信長を討ったわずか十一日後、山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れ、小栗栖(京都市山科区)で武者狩りに遭って命を落とした。

 俗にいう“三日天下”で、戦国史の謎の一つだったが、これを解き明かす古文書がこのほど、石山寺(大津市)から発見された。新史料は寺と関係の深い近江出身の武将である山岡景以が、先祖の由緒を記した『山岡景以舎系図』。

 景以は瀬田城(同市)の城主だった山岡景隆の七男で、天正一六年(1588)に豊臣秀次の側近となり、彼が失脚して自害したことから後に秀吉に仕えた。その彼が当時、書き記した系図が江戸時代になって書写され、そこに本能寺の変が起きた直後、明智軍と山岡軍が琵琶湖で船合戦をしたことが書かれていたのだ――。

 光秀は信長を討った直後、彼の天下布武の象徴でもあった壮麗な安土城(近江八幡市)を接収し、天下に号令しようとした。

 信長の城に入らなければ、朝廷も世間も自身を“ポスト信長”とは認めてくれないからで、明智軍はその戦略に基づき、早々と京を発ち、まず、近江の瀬田に向かった。瀬田には琵琶湖から流れ出る瀬田川に唯一、「唐橋」が架かり、安土に向かうにはここを通るしかない。

 だが、『信長公記』によると、光秀が「(瀬田城の)山岡美作(景隆) ・山岡対馬(景佐)兄弟」に「人質出し、明智と同心仕り候へ」と申し入れたところ、二人が「信長公御厚恩浅からず」という理由から橋を焼き落とし、居城に火を懸けて甲賀山中の山中城に退去。

 光秀は景隆の妹を自身の長男である光慶の嫁に迎えようとする関係だったことから驚き、すぐに橋の補修を命じた。

 だが、三日もロスし、居城の坂本城(大津市)に一度、戻ることを余儀なくされたことから、安土に入城することができたのは六月五日になってから。

 秀吉はこの翌日に陣払いを行い、「中国大返し」を始め、結果、このロスが大きく響いて光秀は後手に回り、加勢を期待していた娘婿の細川忠興ですら、安土城に入ることすらできない舅をポスト信長と認めず、彼は孤立無念の状態となった。

 それゆえ、筆者は『明智光秀は二人いた!』(双葉社)に〈水軍を持っていた光秀は瀬田橋の修復を待つより、船で小刻みに兵を安土へ送ってでも“信長の城”を押さえておくべきだった〉と書いた。

 実際、光秀は水軍を持ち、坂本城は本丸を中心に、三重の堀がすべて琵琶湖に直結していた水城で、大きな御座船も出入り。『信長公記』にも「明智十兵衛、囲い船を拵こしらえ、海手の方を東より西に向って攻められ候」とあり、船のデッキに遮蔽物を設けた囲い船で、水上から堅田砦(大津市)を攻めた記録が残っている。

 一方、山岡景隆も琵琶湖に面した瀬田城の城主。やはり水軍を持っていたのだろう。

 明智水軍は琵琶湖を舞台にした船合戦で山岡水軍に阻まれ、兵を坂本から安土に小刻みに送ることができず、橋の修復を待つしかなかったのだ。

 一方、新たな史料は他にも、ある伝説の真相を炙り出した。「湖渡り伝説」である。

 安土城の守将だった明智秀満が山崎の合戦で明智勢が敗れたあと、城を捨てて坂本城に逃げ帰ろうとしたときのこと。

 彼が馬に乗って湖水を渡ったとする伝説が残されている。江戸時代に生まれた伝承だ。

 秀満は光秀の女婿や従兄弟という説があり、「明智五宿老」と呼ばれた重臣の一人。彼は坂本に撤退する本道を敵(羽柴秀吉軍)に塞がれたことから、やむなく琵琶湖に馬を乗り入れたという。

 すると、羽柴勢は渚際まで見物にやってきて、「溺れ死ぬところを見ようじゃないか」と言って笑い合った。

 だが、秀満は普段から馬で湖水に乗り入れていたことから、浅瀬を把握しており、嘲笑をものともせずに粟津(大津市)の北から唐崎(同市)まで、見事に渡りきったという。

 これを一般的に「左馬之助の湖水渡り」というが、史料には“弥平次”の名で登場する。

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