志村けん「最後の晩餐はおふくろが作ったすいとんがいい」と語った母親との関係性の画像
志村けん

 みんな大好き志村けん氏。今回、本誌では「女性」という観点から氏を検証。といっても、下衆雑誌と一線を画す我々、スキャンダルな下半身ネタには目もくれず、「ネタにおける女性の役割」にのみ着目。そこから見えてきたものとは?

 志村がこたつで寝てしまうと、和子は毛布を掛けるのだという。和子にとっては何歳になっても子供なのだ。

 志村の自分語りにおいて、元軍人で、教頭まで務めていた厳格な父・憲司の話はよく出てくるが、母・和子の話は意外と少ない。しかし、志村は「笑いのセンスは母親の血を引いているかもしれない」と語っており、和子は志村にとって大きな存在なのだ。

 志村家はいわゆる「男尊女卑」の家庭だった。志村は「昔、うちは祖父母と父の兄弟が同居する10人家族。おふくろは寝る暇もなく働いた。砂糖や調味料は婆さんが管理していて、『子供のおやつを作るので砂糖をください』って頼むと、『砂糖の減りが早い』と親父にチクるの。すると親父はおふくろを畑に連れ出して殴るのよ。かわいそうでね…」(『夕刊フジ』)と話している。

 憲司の影響から家庭は冗談も言えないような暗い雰囲気で、和子も笑うことは少なかったが、実家は明るく笑顔が溢れるような環境だったという。

 和子は東村山の正福寺で年に1度行なわれる浦安の舞(雅楽)の初代踊り子に選ばれるほど明るくユーモアのある女性だった。志村家に嫁いでからもユーモアの片鱗を見せることがあったという。

 和子と兄弟4人がこたつに入っていると、ふいにオナラの音がした。“犯人”の和子は次男に「あなた、オナラしたでしょ」と罪をなすりつけ、自分の否は認めなかったのだとか。また、みんなでお団子を食べた際、和子は自分の食べた串を他人の皿に乗せて「私は食べてないわ」とすましていたという。

 厳格な憲司とは対照的に、若い時に踊りをやっていた和子は芸事に寛容だった。

 高校2年生の時、ドリフターズの付き人になるべく家を出た志村。月収4500円だったため食うに食えない生活を送っていた志村が、稀に実家に戻ると、母は「食ってるか?」と呟き台所に立って、すいとんと厚揚げを作り、志村が家を出る時は金を握らせていた。

 19歳で子供ができて堕ろすことになり、相手の父親から「誠意をみせろ」と言われた時、和子は「気を付けるんだよ」と100万円を貸した。それ以来、志村は「母には一生頭が上がらない」と思うようになったという。

 憲司が交通事故で認知症を患ってからは、亡くなるまで苦労が続いた和子だが、82歳の時に転機が訪れる。笑福亭鶴瓶の計らいで『志村&鶴瓶のあぶない交遊録』(テレ朝系)に出演すると、結婚前のように生き生きと明るくなったのだ。

『あぶない交遊録』では、鶴瓶が志村に内緒で和子を呼んで、親子が触れ合う企画を行なうことが恒例となった。親子でゲートボールをする企画から始まり、一緒に氷川きよしのコンサートや温泉旅行を楽しみ、ふじいあきらと手品を披露したり、人気タレントの人生相談に乗ることもあった。

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