■中尊寺の堂舎完成時に「俘囚の上頭」と表現
結果、清衡が清原氏と安倍氏の旧領だった出羽と奥六郡を手にした一方、朝廷は義家の行為を内紛に介入した「私戦」と見なし、翌年に彼を陸奥守から解任。
清衡はその後、姓を藤原に戻し、いわば棚ぼた式に四代にわたった礎を築いたようにも映る。
とはいえ、彼の幸運にはむろん、それなりの根拠があり、何よりも安倍氏の血筋だったことから武貞に冷遇されなかったことは大きい。
確かに長兄である真衡の死は彼に幸運をもたらし、清衡は奥六郡の半分(三郡)を相続し、事実上、その後の清原氏の惣領格と見なされるようになった。
だからこそ、不満を抱いた三男の家衡に殺害されそうにもなったのだろう。
また、義家が真衡に続いて清衡を支持したのは、彼を清原氏の惣領格と認めていたからではないか。
だとすれば、奥州藤原氏の繁栄は安倍氏の血を引き、かつ、清原氏に育てられた清衡だったからこそ成し遂げることができたと言える。
当然、清衡にもそうした自覚があったようで、この世を去る二年前の大治三年(1126)に有名な中尊寺の堂舎が完成した際、落慶を祝う願文で自身を「東夷の遠酋」「俘囚の上頭」と表現。
後三年の役からしばらくたった頃、父である経清の本拠だった江刺郡豊田から平泉に館を移して四代にわたる都となった。
一方、平泉はいわば俘囚が封じ込められた奥六郡の南で、蝦夷の勢力圏と律令国家の境界線から少し飛び出たところにある。
清衡は俘囚にルーツがあると内外に宣言しつつ、平泉に移転することで律令国家の勢力圏に進出する意欲を示したのだ。
●跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。