水墨画の巨匠にもうひとつの顔!?雪舟に守護大名大内氏のスパイ説の画像
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 享徳の乱や応仁の乱が戦国時代の幕開けを告げる中、当時の芸術家は乱世をよそに幽玄、かつ閑寂な文化を独自に開花させた。

 中でも雪舟は当時、それまで中国画の模倣に過ぎなかった水墨画を発展させ、『天橋立図』をはじめとする数多くの国宝を残し、風景を題材とした水墨山水画の大成者として有名。中国や日本各地を旅したことから漂泊の画家と呼ばれ、紀行文である『奥の細道』を書いた“俳聖”と姿がだぶる。

 実際、その作者である松尾芭蕉も“漂泊の俳人”と呼ばれ、陸奥と北陸行脚の旅については、特に仙台伊達家の内情を探るための隠密行だったという説がある一方、雪舟にも“スパイ疑惑”が根強く囁かれる。はたして彼は単なる絵師だったのか――。

 雪舟の前半生は非常に謎が多い。伝承では応永二七年(1420)、備中国赤浜(岡山県総社市)に生まれ、子どもの頃に臨済宗の宝福寺に預けられたあと、東福寺や相国寺に移り、三〇代半ばまで京都で暮らし、この頃に水墨画の基礎を学んだとされる。

 ちなみに当時の名は拙宗で、これは国宝の『瓢鮎図 』を書いた水墨画家の如拙に由来。実際に指導を受けたことはなかったものの、尊敬する先輩にあやかりたい思いがあったのだろう。

 そんな彼は相国寺で修行していた当時、知客という接待係に就き、役目柄、顔が広かったのか、詳細は定かでないものの、西国の守護大名だった大内氏の城下である山口に移ることを勧められ、これが大きな転機となった。

 というのも、大内氏は当時、明などと交易して財政が潤っていたことから京の文化を積極的に吸収。

 雪舟はこうした中、寛正六年(1465)に拙宗から名を改めて自身の工房を持ち、山口における画壇の中心人物になると、二年後の応仁元年(1467)に大内氏の遣明船に乗り、画師として明に渡航する機会に恵まれた。

 雪舟は当時、遣明船が中国大陸の窓口である寧波に着岸し、貿易品の荷揚げや政府の許可を待つ間、地元の天童寺に通い、住職に次ぐ「四明天童第一座」の称号を獲得。文明先進国だった中国の名誉称号が日本でブランド力を発揮していた時代だったことから雪舟は帰国後、作品の落款に好んでこれを使ったという。

 また、雪舟はこの間、随行画家の役目もそつなくこなし、明を回って風景や風俗などをスケッチ。当時の体験が後の水墨山水画のリアリティーに繋つ ながった一方で、帰国後に前述のようにスパイの顔を覗かせる。

 遣明船が日本に戻った文明元年(1469)は応仁の乱の真っ最中軍方である大友氏の本拠で、雪舟にとっては敵地。彼はここで、いったい何をしていたのか。

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