■太平記の描写によって悪者イメージが定着!?

 そこで師直は将軍の意向を受け、当該の御家人が所領を確実に知行できるよう、「沙汰付(武力を伴う強制執行)」することを各地の守護に命令。

 御家人はこれがあることで、安心して恩賞を受け取ることができ、だからこそ命懸けで南朝方と戦ったわけで、こうして師直の影響力はさらに高まった。

 にもかかわらず、彼は前述のように『太平記』で破廉恥なのぞき魔にされると、悪評はこれだけにとどまらず、皇族や寺社などの伝統的権威を軽視した無学で粗暴な非道徳的な人物というイメージが定着した。

 だが、はたして本当に、そう言い切ってしまっていいのだろうか。

 師直は禅宗の経典の注釈書を発行し、京都市北区にある真如寺を創建したように仏教を敬った一方、和歌を愛して北朝の勅撰集にも入選しており、無学で粗暴な人物とはどうしても思えない。

 ただ、そうした一方で、彼は南朝の正平三年(1348)正月に河内四条畷の合戦で、南朝の楠木正行(楠木正成の遺児)を自刃させ、さらに直後、吉野に侵攻して南朝の皇居を焼き払った。

 だからこそ、『太平記』は〈もし王がいなくても叶う道理があれば、木をもって造るか、金をもって鋳るかして、生きている院・国王(上皇・天皇)をば、何方へか、流し捨ててしまえ〉という暴言を彼に吐かせたのではないか。

 実際、師直が南朝に強硬な姿勢を貫いたことは確かだろう。

 とはいえ、北朝の皇室や寺社までをも否定していたわけではない。内乱期に敵方に強硬な態度を取ることはある意味、当然だ。

 ただ、そうした姿勢が当時、負の遺産を一身に背負わされる引き金になったのだろう。『太平記』は尊氏と弟の直義が争った「観応の擾乱」(一三五〇~五二年)で彼を葬り去り、これも彼の印象が悪くなった一因のようだ。

●跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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