「暴れん坊将軍」吉宗のライバル!徳川宗春「真の暴れん坊説」の真偽の画像
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 時代劇『暴れん坊将軍』の主人公で、江戸幕府の財政再建を図る「享保の改革」を主導し、質素倹約の徹底に努めた八代将軍の徳川吉宗。その性格は幕府の公式史書である『徳川実紀』によると、実に穏やかだったとされ、第七代尾張藩主である徳川宗春のほうがむしろ、“正真正銘の暴れん坊”。宗春は実際、派手な装束を好み、吉宗とは対極的な政策を名古屋城下で推し進め、時代劇では幕府の転覆を企てる謀叛人、かつ、その敵役として描かれることも少なくない。

 だが、暴れん坊の悪評ははたして本当なのか――。

 宗春は元禄九年(1696)、尾張藩主の二〇男として生まれ、一二年早く紀州藩主の四男に生まれた吉宗が本来、その後を継ぐ立場でなかったのと似て、生涯、部屋住みで終わるはずだった。

 だが、宗春は一八歳で江戸に移り住み、元禄文化の華やいだ雰囲気が残る暮らしに大きな刺激を受けたのだろう。

 宗春は享保元年(1716)、吉宗が将軍に就くと、奥州梁川(福島県伊達市)で大名に取り立てられた。宗の字は将軍から与えられたもので、吉宗はそれだけ宗春の資質を高く買っていたのだろう。

 だが、一方で宗春には兄の継友が将軍就任レースで吉宗に敗れたという思いがあったのかもしれない。

 尾張藩は宗春の長兄である四代の吉通が死去したあと、その嫡男だった五代の五郎太が夭折。その叔父だった継友が家督を継承し、幕府の七代将軍である家継がわずか八歳で亡くなったことで、その後継者として御三家である尾張と紀州両藩主のいずれかを迎えることになった。

 当時、尾張藩は家格が紀州よりも上と油断。その勝利を確信していた世間も予想が覆ったことで、みすみす天下の将軍職を逃した尾張藩の無能ぶりを嘲笑するこんな落首が江戸の町に飛び交った。

 尾張には のうなし猿が集まりて 見ざる 聞かざる 天下とらざる

 当然、宗春は江戸っ子の嘲笑を耳にし、忸怩たる思いを抱いたはず。

 享保一五年(1530)には兄の継友が病没し、宗春は三五歳のときに尾張藩六二万石の藩主になると、すぐさま方針を転換し、質素倹約に努める将軍の意向に反して江戸藩邸内における遊芸や音曲、鳴物を自由化し、藩士の門限も撤廃。

 彼は翌年、藩主として初めてお国入りを果たし、当時の華美な装束が名古屋城下の風俗などを記した『遊女濃安都』にこう記されている。〈浅黄の頭巾に鼈甲の丸笠。その笠のふちの二方を巻き煎餅のように上へ巻き上げ、まるで唐人笠のごとく。衣服は足袋とともに黒〉

 宗春はこのとき、馬に乗って国に入ったとされ、これは質素倹約の風潮に対する明らかな挑戦と言え、彼の行動はその後もエスカレート。『遊女濃安都』によると、神社に参拝する際は、白い牛に鞍や鐙を据えてその上に跨り、装束は派手な猩々緋の着物で、頭巾に唐人笠をかぶり、一・五メートルもある煙管の先を茶坊主に持たせ、絶えずタバコをくゆらせていたという。

 また、宗春は城下の辻々や町屋に夜、思い思いの行灯や提灯、灯篭を出すように命じ、町民らが群れをなして彼の一行を見物したという。

 さらに城下における芝居小屋や遊郭が公認され、享保の改革に伴って職を失った役者が京都や大坂はもとより、江戸からも興行に集った一方、遊女の数は一〇〇〇人を超え、まるで名古屋だけが別世界のようなバブルを謳歌。

 宗春はそれにしてもなぜ、ここまで徹底して反・吉宗を貫いたのか。

 前述の通り、彼に将軍職を奪われた恨みもあっただろうが、彼自身の政治理念が何よりも大きかったのではないか。

 宗春は事実、政治理念と藩政方針を二一ヶ条からなる『温知政要』としてまとめ、九条で倹約の必要性を認めつつ、それ一辺倒では〈かえって無益の費となることある〉と主張。

 一二条では興行にも言及し、景気浮揚効果を指摘し、喧嘩などの騒動は毎回、取り締まればよく、混乱も次第に収束するとしている。

 中でも二〇条では改革そのものについて、君主一人が独断で政治を司る危険性を訴え、第三者の意見が重要と指摘。『温知政要』は実にバランスが取れ、宗春が単なる派手好きの暴れん坊ではなく、明確な政治理念に基づき、吉宗の緊縮財政に拡大経済政策で対抗しようとしたことも窺える。

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