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かく戦えり!太平洋戦争「奇跡の戦場」5大秘話

[週刊大衆09月01日号]

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実娘告白 零戦パイロット坂井三郎氏の素顔「家族と空を愛した撃墜王」 vol.01

開戦当初は破竹の快進撃を続けた日本軍だが、1942年6月のミッドウェー海戦での惨敗を機に、戦局は悪化の一途をたどっていく。物資は枯渇し、前線の兵士の疲労は極限に達していったが、陸海空戦場で、先人たちは「不屈の闘魂」を見せていた!!

血戦その①沖縄戦「首里戦線」の死闘
砲弾100発で1人殺せばよい!!米軍"鉄の暴風"下での不屈の闘魂


サイパン、硫黄島を落とした米軍は、日本の南端、沖縄に迫っていた。

硫黄島の陥落直後の1945年3月末から、米軍は沖縄上陸を開始。日米の戦力差は、"巨象とアリ"ほどの絶望的な開きがあった。

米軍は戦艦10隻をはじめ巡洋艦、駆逐艦計30隻以上、上陸部隊を乗せた輸送船などを含め180隻近い巨大戦力を沖縄に投入してきた。加えて、空母、軽空母合わせて16隻という機動部隊が後方に控えていた。対する日本の艦艇は皆無であり、航空戦力もごくわずかであった。

米軍は上陸前に猛烈な空爆及び艦砲射撃を浴びせた。その投下火力は沖縄戦を通して、砲弾6万発、ロケット弾2万発、手榴弾に至っては40万発近くが使用されている。米軍の砲兵司令官は、「砲弾100発で1人殺せばよい」と言い放ったというからすさまじい。この圧倒的な米軍の火力は、「鉄の暴風」と呼ばれている。

当初、日本軍は積極策をもって米軍を迎え撃つ作戦を立てていた。しかし、沖縄を守備する第32軍(牛島満中将)は、主力として期待していた精鋭の第9師団を、直前に台湾防衛のために引き抜かれていた。これで兵力は予定の3分の2となったため、牛島中将は参謀らと諮り、米軍を上陸させてから洞窟陣地や天然の要害を利用して討つ"ゲリラ戦"に変更を余儀なくされた。

「鹿児島出身の牛島中将は、立案にあたり、郷土の戦国大名・島津氏が得意とした"捨て奸"を意識したと言います。捨て奸とは、本隊が退却を繰り返すことで敵を自陣に招き入れ、事前に潜ませていた伏兵に奇襲させるというものです」(軍事ライター・黒鉦英夫氏)

多勢に無勢、県民にも大きな犠牲を強いた沖縄戦は3か月に及んだが、日本軍は「首里戦線」と呼ばれる局地戦で"人間離れ"した戦闘を演じている。

第32軍の司令部は、首里城近くの地下壕の中にあった。1945年4月1日、沖縄本島中西部・北谷町の海岸に米軍部隊が上陸してきた。日本軍は戦力が乏しかったため、水際作戦(敵上陸時に猛攻を与える)を放棄したため、米軍は無血上陸した。米軍は飛行場ほか、上陸地点周辺地域を確保すると、日本軍の司令部のある首里を目指した。

北谷から首里までは約10キロ。この間に沖縄戦で最も苛烈な戦闘が繰り広げられている。首里から4キロ北の「嘉数の戦い」では、第63旅団隷下の独立歩兵大隊が奮戦。昼間、米軍に陣地を占領されても夜陰に乗じた決死隊で斬り込み攻撃を敢行し、再び陣地を奪い返すなど、迫撃砲を武器に米軍に出血を強いた。首里の西側まで米軍が迫ると、「シュガーローフ(現在の那覇市安里)の戦い」が展開された。

「同地では米軍は多大な出血を強いられた。これは、あの有名なノルマンディー上陸作戦で、米軍が上陸を担当した激戦地"オマハビーチ"の戦闘を上回るもので、米軍史上、特筆すべき苦闘でした」(軍事評論家・古是三春氏)

同地での日本軍の勇猛果敢ぶりはすさまじく、米海兵隊は、2500名以上が戦死し、1300名余りが戦闘恐怖症にかかったという。首里の北面(石嶺)では米軍の2個中隊をほぼ殲滅している。

約50日間続いた「首里戦線」の戦いで、日本軍は米軍の侵攻を「1日1メートル」に食い止めたと言われる。

「劣勢の局地戦では奇跡でしかなく、いかに日本軍がゲリラ戦闘に長けていたのかがわかる」(軍事評論家・神浦元彰氏)

米軍は日本軍のこの奮戦ぶりを後年、「歩兵戦闘の極み」と評価している。


血戦その②最強駆逐艦「雪風」激闘譚
あらゆる地獄の戦場から生還!!旗艦「大和」に「我、異常ナシ」


1945年4月6日、米軍の沖縄本島上陸から5日が経過したこの日、日本海軍のほぼすべての残存艦からなる「水上特攻艦隊」が山口県・徳山沖を出撃した。目的地は沖縄――。

沖縄では、牛島満中将率いる第32軍が熾烈な陸上戦闘を繰り広げており、洋上に展開する米艦艇に対しては、「菊水作戦」の名の下、神風特別攻撃隊が不屈の闘魂を示していた。

戦力の損耗著しい帝国海軍であったが、健在だった最強戦艦「大和」を中心に、軽巡洋艦「矢矧」、駆逐艦「涼月」「冬月」「磯風」「浜風」「雪風」「朝霜」「初霜」「霞」の8隻からなる沖縄支援艦隊を編成した。作戦内容は、米艦隊を蹴散らし沖縄に突入、自艦を座礁させ固定砲台とし、米艦艇を撃ちまくるというものだった。

しかし、航空機の援護がないため、「提灯を提げてひとり暗夜を行くにも等しき劣勢」と称された。米航空機による攻撃により道半ばにして艦隊殲滅のリスクを伴う「特攻」だったわけだ。

事実、結果は惨敗であった。出港翌日の7日正午すぎ、米軍の爆撃、雷撃機の大群が襲来。不沈艦と称された「大和」は、魚雷9本、爆弾3発を浴び、14時半ごろ鹿児島県・坊ノ岬沖約170キロの海域に沈んだ。「大和」沈没と同時に、「作戦中止」の命令が下り、帰投能力を残していた艦は、次々に反転していった。

この日本海軍最後の大規模海戦において、一人、気を吐いたのが、"奇跡の艦"と呼ばれる駆逐艦「雪風」であった。

「雪風」は、41年の初陣以来、ミッドウェー、ガダルカナル、マリアナ、レイテと主要な戦闘に参加。すべての戦闘に生還していた。しかも、艦はほぼ無傷だったというから驚きだ。

「雪風」が不沈艦と化したのは、4代目艦長であった"豪傑"寺内正道中佐の指揮によるところが大きい。柔道の達人にして豪放磊落な性格、90キロを超える巨体ながら、寺内は防空戦闘の達人だったという。「ワシがいる限り『雪風』は沈まん!」と豪語した寺内に将兵は心酔。神業とも言える操舵を見せ、数々の戦場で武勲を挙げてきたのだ。

「航海長の左肩を足で蹴飛ばすと、艦が左に進むという逸話が残っているほどの豪傑だったとか」(前出・神浦氏)

沖縄特攻の際も、傾斜が復旧せず沈没寸前となった「大和」に対し、敵航空機の放った爆弾により身の数倍はあろうかという水柱に囲まれながら、「我、異常ナシ!」と発信してきたのは他でもない「雪風」だった。「作戦中止」の命を受けても、「雪風」艦長の寺内は、いまだ健在な艦をまとめて任務完遂を主張してきたという。終戦まで戦い続けた「雪風」は、台湾に引き渡され、「丹陽」と改称され旗艦として迎えられた。「丹陽」の意味は「赤い太陽」。

台湾海軍が「雪風」の武勲を称え、帝国海軍の旭日旗に艦名をなぞらえたのだろう。太平洋を駆け抜けた最強駆逐艦「雪風」の舵輪と錨は、現在、江田島の旧海軍兵学校・教育参考館の庭に展示されている。


血戦その③第1次ソロモン海戦
お家芸の「夜討ち」で大戦果!!米軍が切歯扼腕した絶海の死闘


太平洋戦争開戦後、日本軍はニューカレドニア、フィジー、サモア方面へ進出し、米豪のシーレーン(海上輸送路)を断ち、同地域に航空基地を建設する作戦(FS作戦)を立案した。

しかし、ミッドウェーの惨敗により作戦は頓挫。さらに、米第1海兵師団にガダルカナル島を奪われてしまった。

そこで、ガダルカナルの奪還とFS作戦の再開のために、隠密裏にガダルカナルへ接近、米輸送艦を殲滅し、上陸部隊への補給を絶とうと考えた。

作戦遂行を命じられたのは、三川軍一中将率いる第8艦隊。8月7日にラバウルを出撃し、航路を偽装しながらガダルカナルを目指した三川艦隊は、8日の23時半頃、サボ島に到着、三川中将は全軍突撃の命令を下す。突撃の速力は26ノット。時速換算で約50キロという猛スピードである。

水上偵察機が照明弾を投下するや、敵艦の姿が鮮やかに浮かび上がった。こうなると、夜間戦闘をお家芸とする日本海軍の独壇場だった。

「当時の米軍は、レーダーを備えた船を使っていました。しかし、当時のレーダーは、天候いかんで小さな島と敵の船の区別がつかない代物。対する日本軍は、操舵技術はピカイチで、夜や悪天候での戦いには長けていた」(神浦氏)

重巡洋艦「鳥海」が放った魚雷2発が豪重巡「キャンベラ」に命中、大破したのを契機に、米重巡「シカゴ」、駆逐艦「パターソン」も多数の命中弾を受けて中大破した。

その後、海域を変えて米艦隊との戦闘が再開されたが、ここでもほぼ一方的な打撃を加えることに成功した。結果、敵側は重巡4沈没、1大破、駆逐艦2中破という被害を強いられた。対して日本側の被害は重巡1沈没、1小破という軽微なもの。

ただ、単純に勝利とは喜べない一面も。

「FS作戦は、日本陸海軍の能力の限界を超えたものだった。にもかかわらず、士気、練度の高い日本海軍は、局地戦闘で勝利を重ねていった。第1次ソロモン海戦でも連合軍に多大な損害を与えることに成功した。ただ、この成功は、当初の作戦の目標だった輸送船団の殲滅という点を忘れさせてしまった。輸送船団を撃ち漏らしたことが、のちの苦戦を招いたと言える」(前出・古是氏)

勝って兜の緒を締めよ、である。米軍は、この海戦を「史上最悪の敗北の一つ」と振り返っている。


血戦その④「キスカ島守備隊」撤退作戦
米軍の目を欺いた"忍法霧遁の術"戦死者ゼロ「アリューシャンの奇跡」


1942年6月にアッツ、キスカを占領し、西アリューシャンにおける橋頭堡(拠点)として守備隊を置いていた日本軍だが、43年5月、米軍はアッツ島に1万余名の陸戦隊を送り込んだ。

アッツ守備隊は最後まで頑強に抵抗したが、多勢に無勢で玉砕。米軍は今度は隣のキスカへの上陸を計画した。当時の日本軍には、同戦域で米軍の猛攻を真正面から阻止する戦力は残っていなかったため、大本営(作戦指導部)は、守備隊を撤退させる策を講じた。

秘匿作戦名「ケ号作戦」。"ケ"は乾坤一擲を意味する。当初、潜水艦を使った撤退作戦を立案したが、結局、駆逐艦隊による撤収作戦に落ち着いた。

作戦は極秘裏に行われなければならず、そのためには「①同地域に特有の濃霧を利用する(=濃霧だと敵航空機が展開できない)②新鋭のレーダー装置を搭載した艦が作戦に参加(=レーダーを用いる米艦隊に備えるため)」の2つの要件を満たす必要があった。②は、新鋭高速駆逐艦「島風」の作戦投入がかなったためクリアされ、あとは天候次第となった。決行日は43年7月12日とされ、撤収部隊が出撃したが、天候が濃霧とならず4度突入に失敗。やむなく根拠地の幌筵島(千島列島北東部の島)に引き返した。

撤退部隊の司令官だった木村昌福少将は、軍上層部から腰抜けと罵られたが、木村には「濃霧なくして作戦成功なし」の固い信念があった。

「罵倒されようとも、悪天候の利用を頑として譲らなかった木村少将の采配があったからこそ、奇跡は実現した」(古是氏)

作戦再開を期す木村に朗報が舞い込む。幌筵の気象台が、7月25日以降は、キスカ周辺は濃霧におおわれるというのだ。撤退部隊はすぐさま出撃した。29日にキスカ湾への突入に成功し、見事、5千名を超える守備隊全員を撤退させることに成功した。

島が"もぬけの殻"だとは知らない米軍は8月15日、艦砲射撃後に、3万4千の兵力で同島に上陸。あげくに同士討ちを演じ、100名の犠牲者を出している。霧に隠れた「霧遁の術」史上類を見ない撤退作戦は、現場指揮官の信念が生み出したといえる。


血戦その⑤対B-29「本土防空戦」
日本を焦土に変えた"超空の要塞"に空対空特攻を敢行した「震天制空隊」


太平洋戦争末期、日本本土は米軍の最新鋭戦略爆撃機B-29により、連日、猛烈な空襲に見舞われた。

全国各地の主要都市、軍需工場が焼き払われたどころか、戦時国際法を完全に無視した米軍の焼夷弾攻撃により、何十万人という民間人の命が奪われた。

1945年3月10日の東京大空襲では、344機ものB-29が飛来。一夜にして約10万人の民間人の命が奪われた(これは、3か月間続いた沖縄戦における住民の戦没者数と同等)。

大量の爆弾や焼夷弾を搭載し、高射砲も届かない1万メートルという高高度を飛んだ"超空の要塞"B-29。日本軍は、この米軍機になすすべがなかったのか。

否!日本の本土防空隊はあらん限りの死力を尽くし、B-29に一矢報いていたのだ。

44年6月、北九州の八幡製鉄所に対し爆撃を試みたB-29の編隊を迎え撃ったのが、戦闘機「屠龍」を擁する陸軍第19飛行団・飛行第4戦隊だった。この戦闘で第4戦隊の「屠龍」は、B-29を7機撃墜、4機撃破という大戦果を挙げた。損害は1機被弾という軽微なものだった。

高高度での空戦では、空気が薄いため操縦桿が思うように動かない。そのため、パイロットには高い技量が求められた。第4戦隊の秘密兵器が、戦車砲と同じ37ミリ砲。重厚かつバカでかいB-29を撃墜するには、通常の機関砲では効果がなかったのだ。

さらに、「斜め銃(=操縦席の後部に取り付けられた上方30度の機関砲)」も搭載されており、これでB-29の死角とされる後下方から狙い撃つことができた。


隊員の勇気が不可能を可能に

信じられないような方法で"地獄の使者"B-29を撃墜したツワモノもいる。

首都圏を防衛する陸軍第10飛行師団隷下の飛行隊による「空対空特攻」が、それだ。空対空特攻とは、文字どおりB-29に空中で"体当たり"をして撃墜するということである。その名も「震天制空隊」。とりわけ、飛行第244戦隊は有名だ。調布飛行場に所在した同隊は、44年12月3日の戦闘で、四宮徹中尉、板垣政雄伍長、中野松美伍長が三式戦闘機「飛燕」で体当たりを敢行。

しかも全員が生還しているというから驚きだ。

中野伍長などは、敵機の後方下面から自機のプロペラで敵機の水平尾翼を破壊し、いきおい敵機の上方に出た中野伍長機は、B-29におおいかぶさるように馬乗りになり、胴体をプロペラで切り刻んで撃墜したという。すさまじき闘魂だ。

「この特攻作戦は生還を前提としたものだった。B-29の飛行する高度1万メートルから脱出するために機外に出るということは、気温差や低酸素など、障害がたくさんある。しかし、当時の日本軍は、防寒服、酸素マスク、パラシュートという装備で、それを実行した。この勇気こそが、不可能を可能にした原動力だった」(神浦氏)

日本軍は通算500機に迫るB-29を撃墜し、3千機近くに損傷を与えている。

どんなに劣勢に陥ろうとも、敵機を撃墜せんと命を燃やした先人たちの不屈の闘魂を忘れてはならない。

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