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堺雅人も『真田丸』で好演「真田幸村の意外すぎる真実」

[ヴィーナス2016年02月06日号]

堺雅人も『真田丸』で好演「真田幸村の意外すぎる真実」

 ついに1月10日から放送されたNHK大河『真田丸』。人気映画監督の三谷幸喜氏が脚本を書き、堺雅人、長澤まさみらが顔を揃えた豪華キャスト陣はもちろんだが、やはり、主人公・真田幸村の生き様が、ドラマへの期待感を高めている。

 真田幸村――信濃国(長野県)の小領主、真田昌幸の次男として生まれたとされる。周りを徳川家康、上杉謙信、北条氏という大勢力に囲まれていたため、いかにして、真田家を守り抜くかがテーマだった。だからこそ、凋略と裏切りを多用し、その姿は現代では“小さき強き者”とのイメージが強い。しかし、当時は「表裏比興」(裏と表のある卑怯者)とののしられるなど、決していいイメージは持たれていなかった。

 そもそも、「幸村」という名前も実在しない。現在、幸村と呼ばれるその男の名前は、「信繁」である。徳川家が支配した江戸時代、徳川家の祖である家康を苦しめた真田信繁という名前は、口に出すこと自体はばかられた。しかし、その痛快な生き様は庶民に愛され、語り草になっていた。そこで、架空の「幸村」という名前を作って語られたのだが、逆に、仮名のほうが現代まで浸透したのだ。

 さらに言うと、幸村の正確な生年月日も、実は分かっていない。家臣がまとめた書物を根拠とする1567年説が一般的となっているのだが、菩提寺に残された過去帳(現在の住民票の役割も一部で果たす)に記された1570年という説も、否定できないからだ。名前も生年月日も分からず、しかも、卑怯者とまでののしられながら、現在では英雄扱いされる戦国武将。このような真田幸村の実態について、切れ味鋭く迫った書籍『真田幸村「英雄伝説のウソと真実」』(双葉社)が上梓されている。その著者の跡部蛮氏は、同書の冒頭で幸村の不正確さについて、<彼について記した一級史料が絶対的に不足しているからだ。もちろん、一級史料といえる幸村の書状も一部残っているものの、その数は少ない>と説明している。だからこそ、数々の創作話が生まれ、まことしやかに話され、そして、信じられるのである。

 では、真実の真田幸村とは、どのような人物なのか。そして、現在に伝わる彼の英雄伝説は本物なのだろうか――。三谷幸喜原作の大河ドラマでは放映されることのないであろう、その素顔にさらに迫ってみよう。

 一般的に真田家とは、信州の名門・滋野党の一員だったとされる。滋野党とは、平安時代前期に海野平に土着した、清和天皇の皇子の子孫といわれる家だ。滋野党はその後、海野氏、望月氏、禰津氏に分かれるが、真田氏は自らの家を海野氏の庶流としている。しかし、跡部氏はその著書の中で、この家系にも疑問があるとしている。それは、「出自の捏造」だ。そして、これは真田家の家紋「六文銭」の“無断使用”にもつながる問題だという。

 真田家は、海野小太郎という男が真田幸隆であり、武田信玄に仕え、本領である真田郷(現・長野県上田市)を奪還した際に、その名を取って氏名を海野から真田に変えたとしている。ところが、それよりもはるかに時代を遡る1400年には、すでに真田家(実田家)が禰津家の配下として「大塔合戦」に参陣していることが明らかになっている。そのため、「真田家」が発生した時系列に大きな矛盾ができるというわけだ。家系を捏造としたとすれば、海野家の代表的な家紋だとして、真田家でも使用していた「六文銭」の家紋との関係性にも疑義が出てくる。つまり、実際には関係ない他家の家紋を無断使用したというわけだ。とはいえ、跡部氏も述べているのだが、江戸時代の大名家というのは、それぞれの家系を由緒正しく見えるように“創作”するのが普通のことであり、徳川家ですら“家系操作”をしていた。なので、真田家のルーツに関しても、その範囲内と見ていいだろう。

 一方、幸隆が信玄の旗下に入ることで、真田郷を得たのは事実である。その際、三男・昌幸を人質として差し出したが、これが昌幸の、そして幸村の人生に大きな影響を及ぼすことになる。当時、信玄は日本最強の軍団として恐れられていた。兵馬の強さはもちろん、調略や情報収集など、すべてが超一流だった。天下布武を掲げて領土を拡大し、将軍にも頭を下げなかった織田信長ですら、信玄には“へりくだり外交”を展開したほどだ。昌幸は、その信玄の奥近習衆(側近)に抜擢されたことで強さの秘訣を吸収し、それが、昌幸・幸村父子の数々の戦功を生み出す源となった。

 実際、NHK大河の主題でもある「真田丸」(大坂の陣の際に幸村が大坂城の弱点部分に構築し、徳川家を苦しめた砦)も、信玄が好んで構築した「馬出し」の巨大版であり、武田流軍事の一つに他ならない。真田丸以外にも、このような事例は多数あるので、真田家の華々しい戦歴は、独創的な発想によるものではなく、信玄が編み出した手法に基づいて生まれたものと言っていいのだ。

 ちなみに、幸村関連の小説などで華々しく描かれることの多い「第一次上田合戦」だが、実は幸村が、この合戦に参戦していたかについては疑問が残る。確かに、『上田軍記』や『真武内伝』には「信繁」の奮戦ぶりが克明に描かれているが、実際にはその頃、幸村は上杉家の人質になっていたのである。

 武田家滅亡の後、真田家は徳川、北条、上杉の三強に囲まれる。そこで昌幸は、北隣の上杉家に幸村を人質に出すことで、他家の脅威から守ってもらっていた。「上田合戦は徳川家が真田領に攻め込み、その本拠・上田城を攻め落とそうとする戦い。徳川家は上杉家にとっても敵対関係にあるのに、その戦の最中に、真田家に人質を返す道理はありません」(専門誌編集者)

 2000の兵で8000もの徳川軍を退けたという勇猛さは作られたもので、実際は人質生活を送っていた――幸村ファンにとっては、衝撃の真実だろう。さらに幸村は、上杉家での人質生活を終えると、今度は豊臣家の人質になる。その間、幸村が戦に出陣していたとの確証はなく、秀吉が天下統一を成し遂げた「小田原合戦」が初陣との見方もある。

 となれば、後に“関ヶ原”直前に火蓋が落とされ、3000の兵で4万近い徳川軍を撃退した「第二次上田合戦」が、初めての合戦らしい合戦ということになる。猛将の名をほしいままにする幸村のイメージとは、あまりにかけ離れた素顔だ。

 関ヶ原の合戦後は、徳川家に歯向かったために紀州・九度山で蟄居生活を余儀なくされる、昌幸・幸村父子。10年以上の幽閉を経て、大坂の陣に参戦。徳川家康を危機に陥れたことは、紛れもない事実である。そして、大坂の陣の最中に、親戚であり、同時に自ら槍を交えて、その強さを認めた奥州の大大名・伊達政宗の重臣・片倉家に、次男・大八を預けたのも事実だ。当初は、徳川家をはばかり、片倉姓を名乗っていたが、後に真田姓に復姓。現在も、仙台真田家として続いている。幸村には、大坂の陣の際に、なんとか生き延び、秋田県や鹿児島県で隠遁生活を送ったとの伝承もあるが、それを信じるか信じないかは、あなた次第だ。

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