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江戸を揺るがす大怨霊の霊威は今も……千年を越える将門塚の祟り

[古地図で巡る江戸の怪談]

関東の豪族にして時の朝廷に半期を翻し、天慶3年(940)に討たれた武将・平将門。「平将門の乱」と呼ばれる事件だ。将門のクビは京に運ばれ晒されたが、あたかも生きているかのように目を見開き、夜ごとに喚き、ついにはもう一戦するがために、切られた体を求めて関東に向かって飛び去ったという。そして、その首が落ちたとされる地が将門塚、つまり将門の首塚なのだ、その後、この地にあった神田明神に手厚く祀られたことで、将門の怨霊は一転、神と崇められる存在となる。
だが、その後も移転の話が起こるたびに、何かと異変が起きては将門塚の祟りと、人びとを震え上がらせた。その“恐れ”は現代にも綿々と受け継がれ、数々のまことしやかな都市伝説を今なお、生み続けているのだ。


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将門塚の歴史
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千代田区大手町1-2-4
現在ある首塚は、この地に京から飛んできた首が落ちた地とも、縁者が首をもらい受け、この辺りにあった観音堂のそばに埋葬した地とも伝えられている。その後、塚は荒廃し、将門の霊はその侮辱に怒り、様々な災いをもたらしたという。江戸時代の寛文期(1661~)には酒井雅楽頭(さかいうたのかみ)の屋敷の敷地内となる。明治5年(1872)に首洗い池とされる御手洗池とともに大蔵省中庭に残された。


祟りの伝え1
敵の子孫は、神田明神は絶対NG!
将門を討った藤原秀郷の子孫・佐野家では将門ゆかりの神田明神への参拝はもとより、前を通ることも禁じていた。神田祭の神輿が屋敷の門前を通る際には門を閉めたという。


祟りの伝え2
大蔵省官僚が次々に落命
大蔵省の中庭に残されていた首塚は関東大震災で大蔵省の官舎共々被災した。再建にあたり首塚の発掘調査がなされたが、その後は首洗い池とも呼ばれる御手洗池と、塚の下から発見された石室も壊された。大正12年(1923)、その上に仮官舎が建てられたが、大蔵大臣をはじめ官僚14名が亡くなった。

祟りの伝え3
大蔵省のトラウマ
大蔵省が古跡保存碑を建立したのは、昭和15年(1940)に大蔵省官舎が落雷で全焼したのがきっかけ。「首塚をおろそかにしているから」という畏怖の念から石碑建立となったという。


祟りの伝え4
GHQが工事を断念
昭和20年(1945)、この地を駐車場にする工事を着工したGHQ。ブルドーザーが横転し、死者が出る惨事になった。その後、計画は中止となった。

祟りの伝え5
その扱い、納得いかぬ
昭和48年(1973)に首塚の隣と向かいの2ヶ所でビル工事が行われた。隣のビル関係者は首塚に供養をしてから着工したが、向かいのビルは無関心でスタート。その後、向かいのビルでは工事中に首塚側の地下室で2名死亡。同じ場所で怪我人が続出した。


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