「大化の改新」中心人物は何者か!?“藤原氏の始祖”藤原鎌足のルーツの画像
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 藤原鎌足――六四五年に起きた古代史最大の事件といわれる「大化の改新」の中心人物だ。

 もともとは中臣鎌子と名乗り、摂政と関白を持ち回りで務めた「五摂家」( 近衛 、鷹司、九条、二条、一条)のルーツでもある。

 だが、そんな歴史的なビッグネームも素性は謎だらけ。天皇中心の集権国家作りにも奔走した藤原氏の始祖はいったい、何者なのか――。

 まず、その名前について。実際は「鎌」が正しく、「子」や「足」に意味はないとされ、現代の男性に「夫」や「男」がつくのと理屈は同じ。「鎌子→鎌足」は「幸夫」を「幸男」に改称したようなものだ。

 また、中臣一族はもともと神官の家柄で神に米を供えていたことから、農事に必要な道具もまた神聖なものとされ、「鎌」の字がつけられたのだろう。

 鎌足の父の名前は御食子で、「御食」には神に供える食事との意味がある。

 一方、鎌足は出生地もミステリアス。奈良時代半ばに成立した伝記の『大織冠伝』(『藤氏家伝』ともいう)では大和国高市郡藤原の生まれとされ、飛鳥地方の大原神社に鎌足の産湯の井戸があり、ここが生誕地とされる。

 当時、飛鳥に宮殿( 板葺宮)があったことから確かに天皇を支える人物の出生地としては相応しい。

 だが、最も有力な説は現在、奈良県の明日香村から実に五〇〇キロ以上も離れた常陸国(茨城県)。ただ、その根拠となる歴史物語の『大鏡』は平安時代後期に書かれたもので、より古い史料を優先する歴史のセオリーに反する。

 とはいえ、常陸出身説が有力な理由はいくつかあり、何より『大織冠伝』は鎌足の曾孫である藤原仲麻呂の著述。曽祖父が地方出身というある意味、都合の悪い事実を隠そうとしてもなんら不思議ではない。

 また、鎌倉時代の伝承によれば、鎌足は常陸国の鹿島神宮に参詣する途中、由比ヶ浜に止宿。白狐から「この地に鎌を奉納し、鎌倉郡と名付けよ。さすれば国は豊かになる」という神託を受けたとされる。

 鎌倉という地名が彼の名前に由来するという伝承で、注目すべきは鹿島神宮を訪れたとされる点。

 藤原氏の氏神である春日大社(奈良市)の主祭神は武甕槌神で、鹿島神宮の神でもあるが、ここから白い鹿に乗って飛鳥にやってきたと伝えられる。

 事実、中臣一族は鹿島郡の郡司や鹿島神宮の宮司を多く輩出。鹿島に古代、確かな足跡を残したことは間違いない。

 さらに一族が神官の家柄だったことを考えれば、朝廷の東国支配の一環として常陸国に遣わされ、その呪術力で民を従わせる役目を担って一定の成果を上げたことで、鎌足の時代に畿内に復帰したのかもしれない。『日本書紀』の記述からも鎌足が大化の改新の前年、摂津国三島(大阪府茨木市と高槻市を中心とするエリア)に住んでいたことを確認することができる。

 一方、彼の性格は『大織冠伝』に「(体の)前からはおとなしそうに見えるが、後ろからは厳しい人に見える」と書かれ、野心家だったようにも映る。

 仮に当時の首都である飛鳥から遠く離れた地方出身者だったとすれば、場合によっては中央で一旗揚げようと野心を抱いていたとしてもおかしくはない。

 実際、鎌足は『大織冠伝』によると、当初は軽皇子(のちの孝徳天皇)に近づいたものの、「大事な謀ごとをするには器量が不足している」として彼に見切りをつけ、中大兄皇子に急接近。

 ただ、彼を「雄略英徹」な人物と感じながらも接する機会に恵まれず、悶々と日々を過ごしていたところ、法興寺(現・飛鳥寺)で蹴鞠の会が催された。

 すると、中大兄皇子が蹴鞠を蹴り上げた拍子に靴が脱げ落ち、周囲の人物が蘇我入鹿の権勢を恐れて取ろうとしない中、鎌足だけが拾って信頼されたという。

 むろん、この有名なエピソードには類話も存在し、事実ではないとされる反面、仮に本当だったとしたら鎌足が仕組んだように思えてならない。

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