■ワンチャンスをつかみ子孫繁栄の礎を築く!
ともあれ、この二人が蘇我入鹿を殺害したクーデターの実行犯であることは確か。
当時、飛鳥板葺宮で朝鮮三国から使節を迎える儀式が行われる中、入鹿殺害の刺客に選ばれた佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田は彼を恐れて尻込み。
中大兄皇子が真っ先に飛び出したことで、二人もこれを合図に入鹿に斬り掛かった。
一方、鎌足はこのとき、柱の陰に隠れて弓で狙いを定めていた。
中大兄皇子らが入鹿の殺害に失敗した場合を想定していたからとされ、むろん、その真相は不明。
前述のように軽皇子を見限った“前科”があっただけに、中大兄皇子らが襲撃に失敗した場合はもしや、彼らの口を封じて入鹿に取り入ろうという狙いもあったのかもしれない。
だが、入鹿は不意を突かれて負傷。転がるように玉座近くに辿り着き、天皇に「私になんの罪がありましょうや。どうかお調べください」と告げた。
すると、これを問い質された中大兄皇子が「入鹿は天皇家を滅して皇位を傾けようとした」と奏上。
天皇が黙って殿中に退き、クーデターは成功した。
その後、鎌足は中大兄皇子のブレーンとして政治に関与。
九年後の白雉五年(六五四)、大臣位である紫冠を授かると、天智天皇八年(六六九)一〇月一六日、死に際して大織冠(官位の最上位)の地位を賜った。
その埋葬地は諸説あるものの、摂津国三島の阿武山古墳(大阪府高槻市)が有力とされる。
鎌足はいわば、クーデターというワンチャンスをものにし、これが子孫の幕末まで続く繁栄に繋がった。
跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。