元寇以前、知られざる「異民族が来襲した」千年前の国難!「刀伊の入寇」の舞台裏と歴史的意味の画像
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 日本は四方八方を海に囲まれた島国のため、歴史的に外敵の侵入から守られてきた。

 むろん、例外はある。鎌倉時代の元寇と太平洋戦争がそうだ。前者の場合は二度、本土が蒙古軍に侵略され、後者はアメリカ軍による空襲と占領を招いた。

 だが、それ以前にも外敵襲来があったことはあまり知られていない。それが平安時代の寛仁三年(1019)、「刀伊」と呼ばれた海賊が対馬と壱岐、九州北部沿岸を荒らし回った「刀伊の入寇」。この事件は武士の台頭を予感させると同時に、平安貴族の愚かさを象徴することにもなった――。

 後一条天皇の外戚となった藤原道長とその一門が、わが世の春を謳歌していた時代のことだ。

 寛仁三年三月に道長が出家した七日後、刀伊の兵船五〇余艙が対馬と壱岐を襲い、当時の記録(『小右記』など)によれば、一八四人の住民が殺害され、五八五人が捕虜となった。

 彼らが多くの日本人を捕虜にしたのは奴隷として大陸で売り飛ばすため。刀伊は他にも対馬の銀を持ち去り、一九九疋に及ぶ牛馬を食糧とするために殺した。

 では、刀伊はいったい何者なのか。当初は「新羅(朝鮮人)」と見られた。

 朝廷が奈良時代から朝鮮半島を支配する新羅を敵国とし、「高麗」がこれに代わっても警戒を解いていなかったからだ。

 だが、刀伊は朝鮮人ではない。高麗語で東夷を「とい」と呼んでいたことから、彼らの正体が判明したあとで「刀伊」の漢字を当てたのだ。

 では、高麗の人たちがいう東夷は何者か。

 その正体は女真族(満州東部のツングース系民族)。彼らは後に中国華北部を占領して「金」を建国し、後年にも再び、中国を占領して「清」王朝を打ち立てた民族である。

 だが、当時は契丹族(モンゴル系の遊牧民)に服属し、彼らが建国した「遼」が中国(宋)と女真族の交易路を遮断。彼らは海賊と化し、しばし高麗沿岸を略奪していた。

 刀伊は寛仁三年三月も高麗を荒らし回った勢いを駆って日本に来寇。対馬と壱岐を襲ったあと、四月七日から八日にかけて筑前国沿岸の怡土郡、志摩郡、早良郡(福岡県北部)の他、能古島(福岡市西区)を襲い、計一八九人を殺害。六九五人を捕虜にした。

 むろん、日本側も手をこまねいていたわけではなく、九州の行政や軍事を担う大宰府に一報が届くと、志摩郡では現地の住人だった文室忠光らが刀伊を撃退。

 だが、日本側の本格的な反撃が始まったのは九日になってからだ。

 刀伊はこの日、日本が外敵の侵入を防ぐための防衛施設とした警固所(福岡市中央区)を落とすため、博多に上陸。その来襲が余りに急だったため、大宰府の府兵が集まらなかったものの、平為忠や為賢ら現地の豪族らが奮戦した。

 このとき、警固所が落ちていたら、刀伊は大宰府にまで進んだと思われ、被害がより大きくなったはず。

 迎え撃った為忠らは桓武平氏(平清盛を輩出する賜姓皇族)の末端に連なり、やがて「武者」に成長する者たちだ。

 一方、大宰府の当時の責任者は藤原隆家という貴族。彼は兄の伊周が叔父の道長と権力争いで敗れた巻き添えで配流され、のちに復権して太宰権師(事実上の長官)に就いていた。

 その父は関白の藤原道隆で、九州ではエリート中のエリートといえ、弓矢に不慣れな貴族とはいえ、統率力があった。

 その彼の指揮の下、前述の文室忠光や為忠と為賢、さらに大蔵種材(海賊・藤原純友の乱の際に奮戦した大蔵春実の孫とされる)の他、九州に土着した豪族が活躍。

 すると、のちの蒙古襲来のときと同様、“神風”が吹く幸運も重なった。

 一〇日と一一日の両日、人々が「神明のなすところ」(『小右記』)と語り合った大風が吹いて刀伊は上陸することができず、日本側(大宰府軍)はこの間に兵船や軍勢を集めることができたのだ。

 それでも刀伊は一二日に志摩郡の船ふな越津(糸島市)に上陸。しかし、逆に捕虜となる者も現れて撃退され、大宰府軍が三〇余艙の兵船を仕立てて追撃した。

 刀伊は逃げる途中、肥前国松浦郡に上陸したが、現地の武者である源知らの奮戦で翌日には撤退を余儀なくされた。

 太宰府軍はこうして見事に刀伊を撃退。その主力はここまで触れてきた通り、のちに「武者」と呼ばれる九州の豪族だった。

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