■海賊来襲の対応を巡り貴族政治の限界が露呈

 一方、都の貴族の対応は呆れるばかり。大宰府は刀伊来襲の一報が届いた当日、対馬と壱岐の被害に関する解文(上申書)をまとめ、都にその知らせが届いたのは十日後。大宰府と京の距離を考えれば、時間が掛かるのもやむを得ないとして、問題は朝廷の対応だ。

 陣定(公卿の合議機関)で賊徒の追討や諸道(各地方)の警護などといった大雑把な決定がなされた以外は、主な神社に奉幣を捧げる使者を送ったくらいだったのだ。

 恒例の賀茂祭は予定通り開催され、すでに現地では刀伊が退去したあとだったが、都にその知らせが届いたのは祭の三日後。本土の一部が外敵に襲われているというのに、緊張感のかけらもない。

 また、大宰府から危機が去ったという知らせを受けたあとも対応は鈍く、事後の対応を検討する陣定では被害に遭った地域に対する補償などが話し合われた形跡もない。

 しかも、朝廷内では刀伊を撃退した者に対する論功行賞を見直すべきではないかという意見も出された。

 その理由は行賞の実施を表明する前に賊徒が退去し、すでに危機が過ぎ去ったから、という信じ難いものだった。

 当然、この意見は却下されたものの、これが道長ら、藤原一族が栄華を極めた貴族政治の紛れもない現実で、その時代は一五〇年ほどで終わった。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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